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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    四 芭蕉の足跡
      敦賀での芭蕉
 その夜は月がこうこうと照りわたり、明日の夜もこれだけ晴れわたってくれたらと思うほどの月夜であった。宿の主人に酒を勧められて体が少し暖まったところで、芭蕉等は気比社に参詣した。松の木の間から洩れ出た月の光で、神前の白砂はまるで霜が降りたかのようである。ここで一遍(遊行上人)の高弟他阿上人の故事に因んで、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。芭蕉等は、あまりの月夜の美しさに誘われるかのように気比の松原まで足をのばした。ここでも一句、「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」。翌十五日はあれほどまでに期待していたにもかかわらずあいにくの雨であった。この時に二句、「名月や北国日和定なき」「月のみか雨に相撲もなかりけり」。秋の夜長を宿の主人から金ケ崎の沈鐘伝説など敦賀の色々な伝説を聞いて慰めた。また一句、「月いづこ鐘はしづみて海の底」。
 十六日は幸い天気に恵まれ、潮時を待って芭蕉は、曽良が予約してくれた船で敦賀湾の西にある色浜に向かった。敦賀湊での名月は逃したが、敦賀での名所旧跡への手配は曽良が万事手抜かりなくやってくれていた。とくに敦賀の廻船問屋の天屋五郎右衛門(俳号玄流)には、置き手紙で芭蕉へのもてなしを頼んでいる。色浜へは西行も訪れたといわれており、薄紅色をした「ますほの小貝」は古来より有名であった。五郎右衛門の心尽くしで、酒やご馳走も用意され、本人自らが水先案内人となり、何人かの使用人も同伴させ色浜に赴いた。
 浜には海士の小さな家が数軒あるばかりであった。当浦にある日蓮宗本隆寺にはすでに宿泊を頼んである。酒茶を暖めて酒盛を始めたものの夕暮れ時のわびしさはひとしおである。しかし五郎右衛門・洞哉等と催した句会は芭蕉の敦賀での思い出をより深めた。この時には二句が詠まれ、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」。この日の出来事は、福井から同行してきた洞哉に書き記させてこの寺に残した。現在も本隆寺には直筆の書が残されており、その末尾に次のような句がある。「小萩ちれますほの小貝小盃」。翌十六日、芭蕉一行は常宮の社に立ち寄ってから町に戻った。芭蕉は敦賀で出迎えていた八十村路通を伴い美濃国に向けて出発する。越前での滞在は七日間であった。
写真193 神戸洞哉の書

写真193 神戸洞哉の書




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