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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    四 芭蕉の足跡
      敦賀までの足どり
 越前での最大の目的は八月十五日に敦賀の気比の松原で月見をすることであった。十三日まだ夜も明けきらないうちに芭蕉は洞哉を伴い北陸道を南に向け出発する。しばらく進むと狐川にさしかかる、この辺りは古来より排水の便が悪く湿地には蘆が繁茂していて、「玉江の蘆」として名高い名所であった。そして明け六ツ時(六時頃)、ちょうど浅水橋の付近で夜が明けた。ここで芭蕉は二句をものしている。「月見せよ玉江の蘆を刈ぬ先」「あさむつや月見の旅の明ばなれ」。
 白山連峰が次第に視界から遠ざかり、府中町に近づくにつれ日野山が左手前方に大きく立ち現れる。ここで一句、「あすの月雨占なはんひなが嶽」。今宿・脇本続いて鯖波の宿を過ぎると関ケ鼻に着く。「帰鴈記」は関の原の名所の歌として、「うぐひすの啼つる声にさそはれてゆきもやられる関のはらかな」をとりあげ、鴬の関ともいい関ケ鼻をいい誤ったものとしている。湯尾の宿場を過ぎ、湯尾峠の茶屋に差しかかる頃には日もだいぶ落ちかかる。「帰鴈記」に「此の峠の茶屋に孫嫡子とて疱瘡痲疹の守札有」とあり、芭蕉は「月に名を包みかねてやいもの神」と詠んだ。この日芭蕉は今庄宿に宿をとったものと思われる。この地には源平合戦の折、源氏方がたて篭った燧城跡がある。ここでも一句、「義仲の寝覚の山か月悲し」。
写真192 湯尾峠(「二十四輩順拝図会」)

写真192 湯尾峠(「二十四輩順拝図会」)

 十四日は今庄宿をたち、新道から二ツ屋を通り木ノ芽峠越である。『奥の細道随行日記』から想像すると、芭蕉もまた曽良と同じ道をたどったと思われる。北陸道を右に折れ、日野川の支流鹿蒜川をさかのぼり、帰村・新道村を過ぎ、道を左手に折れ支流沿いの山道を二ツ屋村に向かって登ると木ノ芽峠に着く。峠を越え、新保・葉原・樫曲・谷口村を過ぎ舞崎まで来ると敦賀の町は目と鼻の先である。敦賀ではすでに曽良が宿を用意してくれていた。曽良は大和屋久兵衛宅に泊ったが、その隣家の出雲屋弥一郎に金子一両を預け置き芭蕉へ渡してくれるように依頼している。唐仁橋町の出雲屋に着いたのは夕暮れ時であった。



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