越前での最大の目的は八月十五日に敦賀の気比の松原で月見をすることであった。十三日まだ夜も明けきらないうちに芭蕉は洞哉を伴い北陸道を南に向け出発する。しばらく進むと狐川にさしかかる、この辺りは古来より排水の便が悪く湿地には蘆が繁茂していて、「玉江の蘆」として名高い名所であった。そして明け六ツ時(六時頃)、ちょうど浅水橋の付近で夜が明けた。ここで芭蕉は二句をものしている。「月見せよ玉江の蘆を刈ぬ先」「あさむつや月見の旅の明ばなれ」。
白山連峰が次第に視界から遠ざかり、府中町に近づくにつれ日野山が左手前方に大きく立ち現れる。ここで一句、「あすの月雨占なはんひなが嶽」。今宿・脇本続いて鯖波の宿を過ぎると関ケ鼻に着く。「帰鴈記」は関の原の名所の歌として、「うぐひすの啼つる声にさそはれてゆきもやられる関のはらかな」をとりあげ、鴬の関ともいい関ケ鼻をいい誤ったものとしている。湯尾の宿場を過ぎ、湯尾峠の茶屋に差しかかる頃には日もだいぶ落ちかかる。「帰鴈記」に「此の峠の茶屋に孫嫡子とて疱瘡痲疹の守札有」とあり、芭蕉は「月に名を包みかねてやいもの神」と詠んだ。この日芭蕉は今庄宿に宿をとったものと思われる。この地には源平合戦の折、源氏方がたて篭った燧城跡がある。ここでも一句、「義仲の寝覚の山か月悲し」。 |