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 第五章 宗教と文化
   第三節 学問と文芸
    四 芭蕉の足跡
      福井までの足どり
 江戸を出発してから、芭蕉は曽良を伴って旅を続けてきたが、途中から曽良が腹を病みだした。元禄二年八月五日、芭蕉は曽良が治療に専念できるようにと、彼を加賀山中から一足先に出発させた。このため六日以降、とくに越前に入る頃からの芭蕉の足取りは不確かなものとなる。ここでは『奥の細道』を中心に、曽良の『奥の細道随行日記』も援用しながら、芭蕉の越前での足取りをできる限りたどってみることにする。
 八月十日、芭蕉は前日宿泊した大聖寺町の全昌寺を出発した。北陸道を一里余り(約四キロメートル)南下し、途中立花(橘)の茶屋を少し過ぎたところで西に折れ、しばらく歩くと吉崎村に至る。吉崎村は加賀と越前の国境にあり、蓮如居住以後門前町として栄えていた。芭蕉はここから渡舟(浜坂の渡)で北潟湖の対岸の浜坂浦にある汐越の松を訪れる。芭蕉が訪れる以前の貞享二年(一六八五)に刊行されている「越前地理指南」には、「汐越の松、浦の上砂山の頂ニ百本計あり……海岸波高ク加賀能登の海上東は北潟の湖水白山其外嶺々里々見ゆる、誠に無類の致景也」と記してある。『奥の細道』では「終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」と、実際は蓮如の和歌であるにもかかわらず、芭蕉は誤って西行の歌として記している。芭蕉はこの和歌で景色の妙を言い尽くしているとして、当地においてはあえて句をものすることはなかった。
写真191 汐越の松(『越前国名蹟考』)

写真191 汐越の松(『越前国名蹟考』)

 芭蕉は西行の跡をたどることも目的の一つであったようで、汐越の松を訪れたあと浜坂から北方浦まで行き、そこからおそらく船で北潟湖を渡り北陸道に出て金津に向かったと思われる。金津からは金津道を通り本多氏の城下町丸岡に出て、さらに丸岡から鳴鹿道を通り、鳴鹿山鹿村からは渡しで九頭竜川を渡って対岸の東古市村に着いた。次いで、かつて江戸で親交のあった大夢和尚を尋ねるため勝山街道を福井に向かつて西進、松岡の天竜寺でその人と会っている。おそらく芭蕉はここで一泊したものと思われる。天竜寺は松平昌勝の創建になる寺で永平寺末、その門前には天保十五年(一八四四)に建てられた芭蕉塚がある。
 翌十一日には東古市村まで引き返し、そこから永平寺川をさかのぼり道元が開いた永平寺に向かう。途中で金沢以来同行してきた北枝とも別れ、ここから福井までは芭蕉にとって初めての一人きりの道中となった。別れにさいし、「物書て扇引さく余波哉」の句を北枝に送っている。
 永平寺をくまなく見て回った芭蕉は早目に夕飯を食べ、行程約三里の松平氏の城下町福井に向かう。京善村から越坂峠を吉野境村に出て勝山街道に入ったのか、永平寺川をそのまま下って東古市村から勝山街道を西進したのかよくわからないが、芭蕉は黄昏の道を福井城下に向かった。福井には、十数年以前江戸の芭蕉を訪れたことのある神戸洞哉(等栽)が住んでいるはずであった。洞哉はかつて桜井元輔門下の連歌師で、俳諧では可卿を称し、彼の句は寛文七年(一六六七)刊の北村季吟の「新続犬筑波」にも五句収められており、福井俳壇では長老的存在であった。すでに相当の年令に達していたはずで、城下に入りそれとなく生死を尋ねてみると、今も健在でどこそこに住んでいるとのことであった。ようやくにして町中からすこし離れた足羽山の麓の祐海町に目当ての家を見つけたが、軒先には夕顔・へちまが植えられ、鶏頭と箒木は戸口をおおい隠さんばかりでいかにもみすぼらしい家である。案内をこうと女房らしき人が出てきて、主人はただ今留守でだれそれの家に行っているはずだから尋ねて行ってくれとのことであった。十数年ぶりで再会がかない、芭蕉は結局洞哉の家で二晩やっかいになることになった。



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