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 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      城下町北庄支配
 勝家は北庄を本拠地と定めると、他所に逃れていた有力商人の橘氏や慶松氏に還住を命じ、一乗谷にいた紺屋などの商人・職人を呼び集めている。こうして一乗谷より移住した商人・職人によって北庄につくられたのが一乗町である。勝家滅亡後の天正十三年には「一乗之魚屋町」が知られるから、一乗町の中で同業者の町も形成されつつあったものと思われる。さらに他国より北庄に来て在宅する商人も増えつつあった(橘栄一郎家文書 資3)。天正八年には今立郡五分市の鋳物師たちは北庄で一人当たり一五間四方の屋敷を諸役なしで与えられている(松村文書 資2)。
 また、一乗谷や近辺の寺社には北庄へ移住することが命じられた。天正三年十月に勝家は真宗高田派寺院の坂井郡熊坂専修寺に対し、寺屋敷地を与えるので三か荘へ移住するよう伝えている(法雲寺文書 資5)。のち、専修寺は熊坂の寺敷のほかに「北庄立屋」二反を有していることが知られる(同前)。同年十一月には天台宗寺院の足羽郡大味の西蓮寺に、今年中は猶予するが来春は北庄で寺を建立するように命じ(西蓮寺文書 資3)、一乗谷より移住してきた愛宕社に対しては天正四年六月に勝家が愛宕山(足羽山)を寄進している(坂上文書)。同六年には一乗町に法興寺がみえ(法興寺文書 資3)、そのほか一乗寺・清源寺・安養寺・西光寺・顕本寺などが北庄に移住したと伝える。
 一向一揆の時期には、北庄・石場・木田にそれぞれ「惣老」がいたことが知られ(武州文書 資2)、地域的な自治組織の存在をうかがうことができるが、勝家の時代になると少なくとも史料のうえからはそうした地域的組織を見いだすことができない。朝倉氏の時代から商人・職人は同業者組織である座を形成していたが、信長・勝家はこの座を通じて商人・職人を支配しようとした。北庄の橘氏は朝倉氏の時代には、後の唐人座(中国からの輸入品を扱う座)の中心をなす製薬業を営んでいたが、朝倉氏滅亡直後の天正元年に信長より軽物座(絹製品を扱う座)を統轄する「座長」としての支配権を認められていた。そして翌二年正月には橘氏は北庄のみならず、一乗谷・三国・端郷(足羽郡東郷か)の唐人座・軽物座の支配権を信長より保証されていた(橘栄一郎家文書 資3)。
写真17 織田信長条々

写真17 織田信長条々

 勝家の支配下においても橘氏の座に対する権限は安堵され、唐人座・軽物座に加入している者は橘氏の支配のもとで役銭を負担し、橘氏が勝家に絹を納入することとされている。しかし他所の人々の流入を促進して城下町を繁栄させようとすれば、商人・職人に対し営業の自由を保証しなければならず、また新たに北庄に定着しようとする商人・職人もそれを望んだ。こうして天正四年九月に勝家は北庄において座が特権を行使することを禁止する楽市令を発した(橘栄一郎家文書 資3)。この楽市令の内容は不明であるが、座に加わっていない者でも営業が可能となり、座役銭なども廃止されたものと考えられる。しかしこの楽市令にもかかわらず、橘氏の唐人座・軽物座に対する支配権はそのまま認められている。一乗谷より移住してきた職人が中心となった紺屋たちは軽物座管轄下とされ橘氏に役銭を納入していたが、橘氏を楽市令の例外とするこの処置に不満をもち、翌五年には橘氏より自立し、直接勝家に紺屋役を納入することが認められた。この紺屋役を負担することができなかったので、紺屋たちは天正六年から再び橘氏の支配下に属することとされているが、この後も一乗町紺屋中と橘氏の役銭をめぐる紛争が続いている。
 先に述べた天正四年六月の愛宕社寄進分の山境については豊島・富野の両人が検分したうえで、愛宕社別当寺である遊楽寺に打ち渡されているが(坂上文書)、この両人は天正十年にその名称が知られる「町奉行両人」と判断される(橘栄一郎家文書 資3)。町奉行は土地の引渡しのほか、座の役銭をめぐる紛争や勝家に納入される絹の徴収にも関与している。天正九年十一月に勝家が三国湊に対して出した定書の中に、代官を差し置いて人を追捕してはならないことが記されている(森田正治家文書 資4)。この定書にはまた盗品と知らないで売買されたものについて、元の持主が直接取り返すことを禁じ、代官に届け「北庄法度のごとく」処置するよう規定されている。北庄の町奉行も三国湊代官と同じく治安維持や様々な紛争の裁許に当たったものと思われる。注目されるのは北庄町掟が盗品売買をはじめとして比較的詳細に定められていたとみられることであり、この掟が勝家の領内の町に対して準用されていたことである。北庄に住む人たちはこの町の法を適用され、田舎の法を適用される農民とは区別された。ただし商人・職人に課せられる税はあったが、町の住人一般に課せられる税はまだみられない。勝家の後の丹羽氏の時代になって地子銭が住人に課せられるようになり、農村と区別される都市北庄が確立された。



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