目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 織豊期の越前・若狭
   第二節 織田期の大名
    二 越前国支配の様相
      府中三人衆の支配
 前田利家・佐々成政・不破光治の三人は、信長より府中辺二郡の支配を委ねられ、与力として勝家の軍事指揮下に入るとともに、勝家の行動を監視する目付としての役割も帯びていた。二郡を与えられると前田利家は府中城(後の府中本多氏の城の地)、佐々成政は五分市小丸城、不破光治は府中の町の竜門寺城を本拠としたとされている。
写真18 佐々成政像

写真18 佐々成政像

 三人衆は天正三年十月より高瀬村宝円寺の寺敷安堵、大滝神郷紙座の営業圏の確定、宅良谷慈眼寺の霊供米の安堵などを行い(寳圓寺文書・大滝神社文書・慈眼寺文書 資6)、翌四年五月には赤座吉家に信長より認められた所領を打ち渡している(松雲公採集遺編類纂 資2)。注目されるのはこの天正四年五月までの文書は三人衆の連署で出されているが、その後は三人衆の連署がみられなくなることである。この点については二郡内の武士であった諏訪氏と彼の所領であった南条郡宅良谷の例が参考となろう。信長は天正三年八月に諏訪三郎に朱印状で知行地を与えているから、諏訪氏は信長直臣であることが知られるが、この時に与えられた知行地のなかには宅良谷も含まれていた。しかし天正四年七月には諏訪氏は佐々成政より、知行地が削減されたなどの場合に当座の知行分として与えられる「堪忍分」として南条郡抽尾(湯尾)のうち一五〇石を宛行われている(佐野てる子家文書 資3)。すでに示した表1によれば宅良谷のうちに前田利家の所領があったことが知られるから、これ以前に府中三人衆による管轄郡内の所領割が行われ、宅良谷が利家の所領とされたため、宅良谷を失った諏訪氏に「堪忍分」が与えられたのであろう。また、諏訪氏が成政から知行地を宛行われていることは、諏訪氏が成政に属する与力とされたことを示すから、この所領割とともに与力もそれぞれ三人衆に分属するようになったものと思われる。すなわち天正四年五月から七月の間に府中三人衆はそれぞれ自らの所領と与力を持つ武将となったため、三人衆連署がみられなくなったのであろう。すでに述べたように、天正四年五月二十四日にこの地域で蜂起した一揆を前田利家が苛酷な刑罰で鎮圧しているが、この一揆鎮圧ののち右に述べたような所領と与力の分割が行われたものと考えられる。
 三人衆の所領割にともないそれに対応して支配領域も定まった。三人衆の所領および支配を示す文書から判断すると、前田利家は丹生郡大井村(後の家久村)、今立郡真柄村、南条郡杣山・宅良谷・河野浦を支配していたことが知られ、佐々成政は丹生郡織田平等村に所領を持つほか、今立郡大滝村・岩本村など小丸城周辺の五箇、南条郡湯尾を支配していた。不破光治については所領が知られず、単独で出している文書も見いだせない。前田利家と佐々成政の支配領域が確定されると、それに応じて与力となる者の帰属も定まったものと思われる。佐々成政が鞍谷民部少輔を与力としているのは鞍谷が小丸城の近くであったからであろう(佐野てる子家文書 資3)。また前田利家の配下に大井直泰という者がいたと伝えるが(前田家譜。「利家夜話」では「大井久兵衛」)、これはその苗字と泰という字を実名に含むところからして、室町期より丹生郡大井村に土着していた若狭大飯郡の本郷氏の庶子家大井氏がこの地を支配した利家に従っていたことを示している。朝倉氏旧臣の斎藤氏や三輪氏も利家の家臣となっており(松雲公採集遺編類纂)、その他では府中の酒屋であった越前屋空遍が利家に召し出され、のち金沢に移ったことも知られる(『加賀藩史料』所収越前屋文書)。
写真19 小丸城跡

写真19 小丸城跡

 前田利家は能登の上杉景勝軍を撃退した後、天正九年八月十七日に信長より能登一国四郡を与えられ(『信長公記』)、同十月には越前の利家所領は菅屋長頼に来年の年貢より引き渡すこと、および妻子も能登に移住すべきことが命じられている(尊経閣文庫所蔵文書 資2)。しかし利家は翌十年三月八日に南条郡河野浦に対し船寄山を安堵しているので、この後も越前の所領を支配していたものと考えられる(中村三之丞家文書 資6)。佐々成政は天正九年正月十六日に今立郡大滝掃部の奉書紙についての権限を認める判物を下しているが(三田村士郎家文書 資6)、二月二十日には越中新川郡内で家臣の有沢図書助に知行を与えているから(有沢家文書)、この間に越中へ移封されたものとみられる。なお不破光治については明らかでない。



目次へ  前ページへ  次ページへ