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第六章 中世後期の宗教と文化
   第二節 仏教各宗派の形成と動向
    二 禅宗諸派の展開
      諸山から十刹となった妙法寺
 少林山妙法寺の開山は鎌倉円覚寺の開山として知られる無学祖元、その門弟の高峰顕日、さらにその門弟の夢窓疎石の三人となっている(『扶桑五山記』)。夢窓は後醍醐天皇や足利尊氏・直義の外護を受け、同時期の禅宗界の中心となった人物である。この三開山のうちの誰の段階で建立されたのかは不明であるが、三名連記しなければならない理由が存在したに違いない。あるいは無学や高峰の時期に成立した寺を夢窓の時期になってさらに本格的な寺院としたというようなことかもしれない。夢窓派の寺院ということになろうか。現在は廃寺となっているが、武生市妙法寺町にあったと考えられている。暦応三年(一三四〇)十一月付の得江頼員軍忠状に「妙法寺城」の名がみえる(資2 尊経閣文庫所蔵文書一七〜一九号)。暦応三年にはすでに妙法寺が存在し、城山の名として用いられるほどになっていたのであるから、寺院の成立はそれよりも以前ということになる。いつごろ諸山に列せられたかは不明であるが、「心田播禅師疏」に怡菴という人物が妙法寺に入寺するさいの「山門疏」(新住持を迎える寺院で作る詩文)があるので、心田清播の没する文安四年(一四四七)以前であることは確かである。かなり以前とみてよかろう。このように怡菴が文安四年以前に住持となり、寛正四年(一四六三)十月十三日には正伝首座が住持辞令ともいうべき公文(公帖)を受けている(『蔭凉軒日録』同日条)。しかし応仁の乱後に兵火にかかり、寺産も奪われるというありさまであった。永正四年(一五〇七)の仙甫□登座元の入寺は、当寺が四〇年ぶりに粗末ながらも旧観に復した直後のものであった。月舟寿桂が法眷疏(法類による祝辞)を作成している(「幻雲稿」)。
 戦国期に入ると五山派寺院は一般に衰退へと向かうが、妙法寺の場合は寺勢を盛り返したようである。天文十三年(一五四四)三月十七日に、夢窓と兄弟弟子の元翁本元を開山とし同じ諸山に列せられていた日円寺に比べて、より上位に列せられるよう僧録である鹿苑院へ願い出ている。翌日鹿苑院僧録は、諸山に上下の位次はなく、僧侶の席次は公文を受けた順によるという返答書を送っている(『鹿苑日録』同日条)。その後も妙法寺は日円寺よりも上位の位次を求める運動を続けたのであろう、一〇年後の天文二十三年四月二日、十刹に列せられている(同 同日条)。



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