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 第四章 戦国大名の領国支配
  第五節 越前一向一揆
     三 禁制下の一向衆
      『天文日記』の越前衆
 永正三年一揆の敗北以後、「朝倉始末記」の記述に従うと越前国内には一人の一向衆も存在していないごとくである。しかし永正年間(一五〇四〜二一)末に禁裏料所の吉田郡河合荘の年貢徴収にあたって、荘園代官は朝倉氏だけでなく本願寺を「相語」らっており、実際の年貢収納にさいしては、依然として本願寺から現地門徒への働きかけが有効との認識があった(「守光公記」永正十五年十二月十五日条)。『私心記』には、毎年十一月の本山報恩講の斎頭役を担う単位として「越前大町門徒」が記されている(『私心記』天文四年十一月二十六日・同五年十一月二十六日条)。これは大町専修寺系の門徒団で、唯一集団的な存在をうかがわせる。『天文日記』にも越前在住の門末の名が散見される。すなわち、近江の海津祐珍下の「越前国いぼ屋」、和田本覚寺下の「越前与次郎」「北庄又六」、「川尻了祐」、砂子田徳勝寺代の「しげ藤(藤島荘下郷重藤)西了」、本向寺下の「おなべ後家」など、現地の門末は商人・俗人・後家・法名のみの者ばかりである。寺号を帯びた寺院は他国に亡命中で、在国の寺院名としては唯一「越前最勝寺専宗」しか登場しない(『天文日記』天文五年二月二十八日条)。ただ同寺の所在地は穴馬の「八ケ」とか「郡上」とか記され、「郡上九カ所」に門徒を有しており(同 天文七年六月十二日・同八年十一月七日・同九年五月二十六日条)、当時は穴馬地方や美濃国郡上郡北部に寺基を移していたのではなかろうか。なおこの専宗は近江湖西の有力一向衆たる高島明誓の兄で、推測をたくましくすると、永正一揆の断絶ののち近江から養子に入った人物とも考えられる。



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