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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      倉見氏
写真153 六波羅御教書案(大音正和家文書)

写真153 六波羅御教書案(大音正和家文書)

 倉見氏は、三方郡の新日吉社領倉見荘(二章四節三参照)を本貫とした。鎌倉幕府が成立すると、倉見範清は御家人となっている(ホ函四)。倉見平次郎・同三仕房も御家人であったが、建長二年(一二五〇)以前に彼らの所領は地頭により押領された(ノ函一)。鎌倉末期に御家人倉見平六が、倉見荘の飛地である三方郡御賀尾浦の隣にある小河浦内の辺津浜山を押領しているのは(資8 大音正和家文書二四号)、勢力回復の一端であろうか。また鎌倉中期以降になると倉見弥四郎入道や倉見兵衛大夫忠氏は国衙税所の公文や又代官となっており(「税所次第」)、三方郡東部の山東・山西氏が国衙との関係が明らかでないのに対して、倉見氏の一族には国衙とかかわりをもつようになるものがいた。彼らはのちに渡辺氏を称したと考えられる。また、弘長三年(一二六三)から弘安七年(一二八四)四月まで税所又代官を務めた倉見忠氏は、池田忠氏ともみえており(同前)、倉見氏の一族のなかには、国衙税所にかかわることを通して池田氏など遠敷郡の土豪と関係をもつようになっていた者がいたと思われる。倉見氏は応安の国一揆において一揆方に加わり、鳥羽・宮川氏とともに守護一色方を能登野に攻めている(「守護職次第」)。しかし一揆方が敗れると、それ以降は没落したものと思われ、戦国期にみえる闇見兵衛道蓮が(資9 明通寺文書七〇号、明通寺寄進札)、その系譜を引く人物かどうかは未詳である。



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