目次へ  前ページへ  次ページへ


第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    四 若狭の土豪
      山東氏
写真152 三方郡織田荘山東郷

写真152 三方郡織田荘山東郷

 山東氏は、三方郡の延暦寺常寿院領である織田荘の山東郷を本貫とした。郷内に勢力をもった山東氏は、荘の成立とともに荘官となり在地支配を行ない、鎌倉幕府成立後に山東荘司家経は御家人となった(ホ函四)。建長年間(一二四九〜五六)に北条氏をはじめとする幕府御家人の費用負担によって京都閑院内裏の造営が行なわれたさい、築地の築造費用の一部を山東太郎入道跡の人が負担している(『吾妻鏡』建長二年三月一日条)。同じ建長二年の史料によれば、先の山東家経の跡を孫の馬允が継いだことが知られるが、この馬允は延暦寺への奉仕を理由に御家人役を勤めることができない状態にあったとされている(ノ函一)。このように御家人でありながら荘園領主との結びつきをも失うことのなかった山東氏は、南北朝期に入っても荘官としての地位を保持し、応安の国一揆では山門勢力の一人として一揆方に与したと考えられ、守護一色方と戦い敗北した(「守護職次第」)。
 一揆で敗北した山東氏との関係は未詳であるが、文明年間(一四六九〜八七)には山東重堅や山東郷代官職を有した山東常安が知られる。そのうち常安は代官職を抵当に大森吉久から借銭しており、大森氏はその返済を求めて幕府へ訴えている。この時期、山東郷内の田地についての買得安堵の申請や訴訟も、武田氏ではなく幕府に提出されており(「政所賦銘引付」、「賦引付」一)、若狭東端の山東郷には武田氏の支配は及びにくかったと推測され、山東氏は武田氏支配からかなり自立した立場を保持していたものと思われる。しかし十五世紀末ころになると、武田氏奉行人を務めた山東家忠のように、一族のなかには小浜にでて武田氏の被官となる者もいた(資9 明通寺文書九六号、西福寺文書九・一〇・一七〜二一号、羽賀寺文書三三号)。やがて三方郡の山東氏も、佐柿に在城した武田家臣粟屋氏の支配を受けるようになっていったと思われる。しかし、三方郡を離れ越前にでて敦賀郡の気比社執当に仕え、その私領である三か浦(五幡・江良・挙野浦)の代官を務める者もあった(資8 刀根春次郎家文書一五号)。永禄年間(一五五八〜七〇)以降、三方郡の山東十郎・同権助は、同郡の武士らとともに郡内に立て篭もり武田氏支配から独立していく(『若州国吉篭城記』)。武田氏滅亡後、山東十郎の末裔は郷内の佐田村にある織田社の神主や菅浜村須可麻神社の社家を務めたといい(「神社私考」四)、一方小浜に出た山東氏は、天正四年(一五七六)に伊勢神宮神職の檀那となっている小浜の住人を書き留めた檀那帳には山東民部・同中丞などとしてその名をみせており(『拾椎雑話』)、旧武田家臣の一人として丹羽氏支配下で存続している。



目次へ  前ページへ  次ページへ