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第三章 守護支配の展開
   第三節 室町幕府と国人
    一 国人層の活動
      堀江氏の在地支配
写真147 堀江氏番田館跡(芦原町番田)

写真147 堀江氏番田館跡(芦原町番田)

 堀江道賢は本庄郷公文であるとともに、同郷内の満丸名の名主として年貢を負担しなければならなかったが、興福寺よりこの名の年貢を給分として与えられていた興福寺寺僧との間で紛争が生じていた。右に述べた道賢申状によれば、嘉慶二年(一三八八)に興福寺定南院実乗が満丸名の下地を違乱したとあり、これを退けたのち応永二十五年には福智院栄舜が年貢未納を理由に道賢の名主職を没収したという。またこれ以前に新郷の年貢納入を請け負った雨河という人物が道賢の鴫池も自己の請負地に含まれるとして点札(差押えの札)を立てたため、道賢は門跡に訴え、門跡より守護斯波氏に依頼して点札を解除するということもあった。道賢は満丸名や鴫池に関しては一般の名主・百姓としての権限以上のものをもたないため、年貢未進を理由とする荘園領主側の攻勢にさらされていたのである。荘園領主側の違乱に対する、道賢は利仁将軍以来の由緒を強調するとともに、「限り有る済物本家に沙汰致し、下地重代相続仕る事は天下の通法なり」と述べ、本家に年貢などを負担していれば下地の支配が継続されるのは当然であるという当時の通念によって自己の正当性を主張している。
 しかし同時に注目されるのは、道賢が証拠書類として永徳三年(一三八三)の管領(越前の守護でもあった斯波義将)と守護代甲斐教光の文書、および応永元年の将軍義満御教書を提出していることであり、堀江氏が南北朝末期になって幕府や守護の文書を得るようになり、それを自己の主張に援用するようになったことである。堀江氏も守護斯波氏との結びつきを強めざるをえなくなっていた。南北朝末期の明徳四年(一三九三)に丹生郡織田荘の藤原信昌は、斯波義将の一字を受けて子の兵庫助を将広と名乗らせ、斯波氏に対して「奉公隙なし」と記すように守護との結びつきを強め(資5 劒神社文書一号)、やがて斯波氏の守護代家となっていく。堀江氏の場合も明徳三年に守護義将の弟の義種の一字を受けたと考えられる斎藤(堀江)石見守種用が斯波氏の家臣としてみえ(「相国寺供養記」)、こののち越前で勢力を拡大していく甲斐氏や朝倉氏と対抗しつつ、斯波氏との関係を維持していったものと思われる。やがて堀江一族の指導者である堀江石見守利真は、長禄合戦の守護方の主将となるのである(本章六節参照)。
 長禄二年(一四五八)には、守護方優勢のもと「北郡悉皆坪江(堀江)石見守相計う」とあるように、堀江利真が坂北郡をことごとく支配した(『雑事記』同年十月二日条)。こののち没落した堀江氏(堀江利真)一党が失った所職に、本庄郷公文職・政所職・得丸名、細呂宜郷下方政所職、坪江郷三国湊・藤沢名がみえ(同 長禄三年九月十七日条)、堀江氏は河口・坪江荘の公文職・政所職を請け負うことによって強盛をふるっていた。しかしこの合戦ののち堀江利真一族は没落し、「当時堀江ト号スルハ加賀国者ナリ」とあるように(同 明応五年閏二月十七日条)、越前堀江氏とともに加賀堀江氏も荘園の所職を有するようになり、堀江加賀守入道が本庄郷政所職や三国湊・王見郷・関郷の代官として現われる。 
写真148 堀江景実米銭寄進状(性海寺文書)

写真148 堀江景実米銭寄進状(性海寺文書)

 そののちも堀江氏は、荘園の所職を請け負いそれを在地支配の梃子にしていたと思われるが、朝倉氏が越前を支配するようになると、堀江氏はその被官に組み込まれていった。例えば、堀江氏は名前に朝倉氏の通字である「景」の一字を冠するようになる(資4 性海寺文書五号、資2清水寺成就院文書一号)。朝倉氏のもとにおける堀江氏の支配地は、堀江氏やその家臣が性海寺や滝谷寺へ充てた寄進状などからみると、本庄郷藤沢名や坪江郷光貞名さらに三国湊にも及んだ(資4 滝谷寺文書一七号、性海寺文書五・八・一〇・一一号)。しかし、堀江四郎兵衛の滝谷寺領違乱について朝倉氏の検地人が派遣されるなど、堀江氏が支配権をもった地域においても朝倉氏の領国支配が強められていった(資4 滝谷寺文書六三・六四号)。
 朝倉氏滅亡後は、天正二年(一五七四)に堀江幸岩斎藤秀が自分は「大坂御門徒(本願寺門徒)一分」と滝谷寺に書き送っているように(同一四〇号)、時の情勢から越前一向一揆に加担している様子が知られる。しかし翌三年、織田信長が再度越前に進攻して越前一向一揆を平定すると、その支配下に入ったようである(同一四二号)。この藤秀は、花押から堀江中務丞景忠と同一人物である(同五一・一〇二号)。堀江景忠は永禄十年(一五六七)、加賀一向一揆と結んで朝倉氏に背くという風説が広まると朝倉方に攻められ能登に退いた人物であるから(「朝倉始末記」)、堀江藤秀は朝倉氏が滅亡すると越前に再来したと考えられる。これらの様子をみると、堀江景忠は朝倉氏に対抗するために加賀一向一揆と結び、さらに朝倉氏が滅亡したのちは越前一向一揆と結びながらも機をうかがい、織田信長の支配下に属することによって勢力を保持しようとしたことがうかがえる。



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