目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 南北朝動乱と越前・若狭
   第一節 建武新政と南北両朝の戦い
    五 藤島の戦いと南朝の反撃
      金ケ崎城奪還
 新田義貞は杣山城で金ケ崎落城の知らせを受けた。しかし、即座に討って出られるほどの余力は義貞軍に残されてはいなかった。「有ルモ無キガ如ニテヲハシマシケル」と『太平記』巻一九は表現したが、金ケ崎落城後しばらくの間は、自らの再生と復活のための準備期間として義貞軍は逼塞を余儀なくされたものと思われる。
 一方、幕府では論功行賞が開始される。建武四年(一三三七)八月三日、長崎左衛門入道の旧領である足羽郡主計保半分が豊田種治に与えられ、同月二十一日には、若狭又太郎の旧領三方郡三方郷・三方保地頭職が本郷貞泰に与えられている。敗戦者の武士の所領を奪って功ある武士に再給与するのが、合戦後の論功行賞の通例であった。同年十二月四日に佐々木秀綱が勲功賞として得た丹生郡田中荘もおそらく新田方の武士の旧領であろう(資2 二神文書一号、本郷文書一四号、佐々木文書一号)。
 さて『太平記』巻一九によると、逼塞していた義貞軍が活動を再開すると、幕府は府中(武生市)に斯波高経を下して杣山城を攻撃させ、篭城戦が数か月に及んだ。ところが今度は隣国加賀から敷地・山岸・上木らの武士が畑時能の誘引によって越前に侵入し、その過半が足利方から宮方に与力した平泉寺衆徒や、これと同心した伊自良、あるいは坪江郷の深町らと統一戦線を形成して斯波の軍勢に対抗し、冬に入って膠着状態が続いていた。明けて暦応元年(一三三八)二月、今立郡鯖波宿に偵察に出た脇屋義助の軍に斯波方の細川出羽守が攻撃をしかけたことから、両軍とも主力を投入しての全面戦争に発展し、結局斯波高経は府中を放棄して足羽郡へ没落し、斯波家兼(時家、当時若狭守護で高経の弟)は若狭に逃れたという。
 金ケ崎落城後の義貞軍の動向は『太平記』巻一九以外ではほとんど知りえない。しかし義貞軍の再挙が、霊山城(福島県霊山町)にいた北畠顕家の長征開始と連動する、金ケ崎落城後の南朝再建計画の一環であったことは明らかである。東海道を西上する顕家軍に義貞軍が南下して合流すれば、南朝最強の軍団となるはずで、これこそ後醍醐の望んだ展開であった。そして暦応元年正月二十八日、美濃国青野原(岐阜県関ケ原町)の戦いで顕家軍が幕府軍を撃破する。このときの顕家軍には義貞軍からの増援部隊も含まれていた。『太平記』巻一九の語る義助らの偵察は、実は斯波軍への挑発を意味し、これを機に全面戦争に発展させるのも予定の行動だったのである。ところが顕家は義貞との合流を嫌って南進し、伊勢に向かった。義貞らはこののちも越前国内を転戦して軍事的主導権を握り、四月までに金ケ崎城をも奪還する。しかし再度京都をめざした顕家は和泉国石津(大阪府堺市)で戦死し、ついに南朝最強の軍団は夢のままで終わったのである。



目次へ  前ページへ  次ページへ