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 第七章 若越の文学と仏教
   第三節 泰澄と白山信仰
    一 泰澄の足跡
      『泰澄和尚伝記』の性格
 この『伝記』については、これまで種々の観点から分析が加えられている。そこに述べられた個々の事実については、具体的な年次が示されてはいるが、泰澄という人物の存否はさておいても、伝記の内容そのものが完全に後世の作とみなされたり、かなりの部分に後世の潤色が加わっているという見方が有力である。なかには『伝記』奥書の天徳年間の成立を疑問視し、その成立年代を鎌倉時代にまで引き下げるもの、天徳年間の成立を認めながらも、それが成立した時点ですでにかなりの潤色が加わっているとするもの、それがまた、現存する最古の写本である正中年間書写の金沢文庫本が成立する以前に改変が加えられたとするものなど、その見解も研究者によってさまざまであり、定説どころか、いずれが最も有力な見解であるかもすぐには判定できないのが実情である。
 もっとも、後世の潤色は否定できないものの、まったくの後世の述作とみなすのはいささか無謀で、泰澄が生存したとされる奈良時代の段階で、やはり伝の基盤となった何らかの事実は存在したと受け取るべきであるように思われる。たしかに、道昭・玄・行基といった著名な僧が、年代的にも矛盾なく登場するにもかかわらず、逆にこれらの僧の伝記や『続日本紀』などの史書に泰澄の名がまったくみえないことからすれば、泰澄の伝記作成の際に、ほかの文献をもとに潤色されたとみなされてもやむをえないものといえる。しかし、『伝記』に述べられたできごとが後世の人により泰澄の権威、ひいては白山の崇高性を標榜するための所為であったにせよ、泰澄あるいは白山信仰とまったく無縁の人物を登場させたとは考えられない。やはりそこには、信仰の体系や人物像などの面で、これらの僧と泰澄との直接の接触を説いても、疑いなく受け容れられるだけの余地が存在すると考えられたからこそ、このような伝が残されたと推測されるのである。
 そこで次に、『伝記』の内容を題材として、当時の山岳信仰や観音信仰の実態の面から、泰澄の出た越前と中央との関係を探ってみることにしたい。
 



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