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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
     四 若狭国分寺跡・若狭神宮寺
      中門と南大門など
 中門の基壇土は部分的にしか残されておらず、金堂のように全容を正確には把握できなかった。南大門も同様で、付近の小字名に「大門」があるが、ここでもわずかな基壇土が検出されたのみであった。したがって、わずかに残る基壇土の形状から、東西一五メートル、南北一二メートルと推定される。
 そのほかでは金堂の北側三五メートルの畑地で、部分的だが講堂跡と思われる掘立柱の柱穴が検出された。民家があって一部しか発掘できなかったが、柱間寸法は、南北で三メートル、東西では二・七メートルであった。
写真141 北方建物跡

写真141 北方建物跡

 出土遺物も主要伽藍周辺では平安期のものが多く、寺域北限に近いところで検出された建物跡(写真141)の周辺では奈良・平安期の遺物が目立った。また、金堂跡周辺出土の施釉土器や盤などは、いずれも平安中期をさかのぼるものとは考えられず、たしかにそのころ焼け落ちたとの推察もできるのであるが、ともあれ国分寺の創建に大きな疑問を投げかけたのである。
 



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