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 第七章 若越の文学と仏教
   第二節 古代の寺院
    一 初期寺院の成立と展開
      織田町の湖東式瓦
 そのなかで伝播経路に関して興味深いのは、平成二年に丹生郡織田町小粕窯跡で発見された瓦類である(的矢俊昭「湖東式瓦を出土した小粕窯跡試掘調査について」『福井考古学会会誌』九)。これは近江(滋賀県)の湖東と湖北の一部しか認められておらず、わが国ではほかに類例がないとされてきた。しかし、丹生郡で出土したのである。したがって、現時点では滋賀県と福井県にしか出土例がないことになる。ここでの軒丸瓦は、単弁六葉蓮華文で中房に大きい蓮子をもち、周囲に蓮子を配し、外区内縁に珠文をつける形態を示している。これにともなう軒平瓦は指頭圧痕をつけた重弧文となっており、ほぼ滋賀県出土瓦に等しい。この祖型は百済の首都扶余の軍守里廃寺や、中国吉林省の渤海時代の遺跡に求められるという(小笠原好彦「近江の仏教文化」『古代を考える 近江』)。この瓦の出土した軽野塔ノ塚廃寺などの所在する愛知郡は依知秦氏の本貫であり、渡来氏族の創建にかかわるとの見方が強い。的矢俊昭の報告では、製作手法に若干の差異はあるものの、七世紀後半から八世紀代まで瓦窯が存続したとされている。当然この時期の寺院があるはずだが今のところ未発見という。
図107 出土瓦の拓影(左:小粕遺跡、右:軽野塔ノ塚廃寺)

図107 出土瓦の拓影(左:小粕遺跡、右:軽野塔ノ塚廃寺)

 ところで、湖東式瓦を通しての越前・近江との交流は、たんなる技術交流ではかたづけられない一面をもつ。多くの場合、寺院の建設には氏族集団の影響だけではなく国家が関与しており、瓦もまたそれにともなう事例がままあるが、この場合も例外ではない。『日本書紀』によると皇極天皇元年(六四二)九月、天皇は百済大寺起工の詔勅を発し、「近江と越の丁(朝廷の土木工事に使役された人びと)」の動員を命じている。これが、双方の工人の接点になったと推測され、さらにこのあと、越より数千人が宮廷造営に動員される(『日本書紀』皇極天皇九月条)など、この時期かなりの越人が動いているようである。
 さて、この湖東式瓦に関連する寺院はいったいどこであったのだろうか。ここで近江とのかかわりを示す伝承がある劔神社が想起される。同神社には神宮寺が付属しており、劔御子寺として存在した。この寺は同神社所蔵の国宝梵鐘の銘文によって、少なくとも神護景雲四年(七七〇)には存在したことが確かめられ、確実に神宮寺としてあったことを示している(銘三)。
 神宮寺が国家権力による神仏習合の所産とすれば、後述の若狭神願寺と同様であり、奈良時代以前にすでに伊部氏の氏寺として存在したものを利用したとも考えられよう。ちなみに劔神社を祀る伊部氏は百済よりの渡来人とされており(『新撰姓氏録』)、依知秦氏と同様渡来氏族であった。同じ造寺動員のなかから湖東式瓦がこの地に伝播したものか、あるいは渤海・朝鮮半島から直接導入されたことも考えられ、日本海を通じての文化交流も推察されるであろう。
 さて、本来ならばコシの範囲での初期寺院について述べるべきだが、ここでは福井県内所在の古代寺院跡および瓦窯跡など若干の関連遺跡を加えた記述にとどめておきたい。



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