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 第七章 若越の文学と仏教
   第一節 郷土と文学
    三 漢詩―酬唱文学―
      嶋田忠臣の漢詩
 越前権少掾嶋田忠臣が、渤海の周元伯と唱和したことはすでに記したが、このころ、忠臣はまだ二五歳くらいの青年であった。忠臣は『田氏家集』三巻を残しているが、このときの詩はそのなかにみえない。
 忠臣と渤海使との唱和の詩で残っているのは、元慶六年加賀に到着した裴と交わしたものである。元慶七年四月、渤海使が入京すると、朝廷は菅原道真を治部大輔とし、嶋田忠臣を玄蕃頭として、その接待にあたらせた。忠臣と渤海使との唱和の詩は多数残っているが、とくに次の二首は味わいが深い。
    菅侍郎の酔中衣を脱して裴大使に贈るに同ず
  浅深紅翠自ずから裁成、別れに擬して交親し遠情を贈る。
  此の物君に呈し底事に縁す。他時領を引き暗愁生ず。
    裴大使のに酬ゆ答詩
  驚き見る裴詩電を逐うて成るを、客情歓び慰む主人の情。
  君と共に是れ風雲の会、唯深交を契り一生を送る。
 忠臣には、ほかに「上苑前、越前藤司馬に別る」と題する詩がある。「藤」は「藤原」、「司馬」は中国の官名で国司「掾」に相当するが、誰か明らかではない。貞観十六年ごろ越前掾であった藤原佐世であろうか。
  君を送り且に夕陽の斜なるに及ぶ。是が為に江湖道路なり。
  聞くならく越州勝地多しと、猶応に上林の花に恋着すべし。
忠臣は寛平四年(八九二)世を去った。享年六〇歳くらいと推定されている。



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