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 第六章 若越中世社会の形成
   第五節 平安中・後期の対外交流
    二 日宋貿易と若狭・越前国
      朱仁聡・林庭幹らの来航
 摂関期前半の長徳元年(九九五)九月の上旬、「唐人」朱仁聡・林庭幹ら七〇余人が若狭国に来航したとの情報が中央政府に入り、その対応をめぐり審議が行われた。その経緯は以下のようである。
 「唐人」朱仁聡・林庭幹らの来航に関しては、九月四日に右大臣の藤原道長が、「唐人来航の文」を一条天皇に奏上しているのがその初見である(『台記』久安三年三月二十二日条)。そして、五日に公卿らは「唐人」が若狭国に流れ着いたことについて審議し(『小記目録』)、翌六日にも若狭国に到着した「唐人」七〇余人を若狭国より越前国に移すべきことを審議し定め申している(『日本紀略』・『百練抄』)。さらに七日にも若狭国の「唐人」について審議している(『小記目録』)。このように九月上旬に宋人の来航について陣定が行われ、その対応が審議された記事がみえることから、遅くとも八月下旬ごろには朱仁聡らは若狭国に来航していたと思われる。
 ついで九月二十日には、若狭国に流れ着いた「唐人」の「表」(上申文書)について審議しており(『小記目録』・『百練抄』九月六日条)、二十三日には、「唐人」を越前国へ移すことを定め申している(『本朝世紀』・『権記』九月二十四日条)。そして、『本朝世紀』によれば、翌二十四日に「先日、若狭国進むる所の唐人朱仁聡・林庭幹の解文并びに国解、(一条天皇の)仰せに依り、右大臣(藤原道長)に下し奉る。件の唐人、越前国へ移さるべきの由、前日、諸卿定め申さる。随て則ち、其の由の官符をもって、若狭国に下し遣わす」(編六五一)とある(この日の記事により、初めて来航した「唐人」が朱仁聡・林庭幹ら七〇人であることがわかる)。『権記』九月二十四日条や『百練抄』康平三年(一〇六〇)八月七日条を参考にすると、二十四日以前に若狭国が中央政府に進めた「唐人」朱仁聡・林庭幹らの解文と「若狭国解」を一条天皇の仰せにより、藤原行成が右大臣藤原道長に下したこと、前日二十三日に諸卿が定め申した審議の内容が一条天皇に奏上され、天皇の裁可を経て朱仁聡らを越前国に移す旨の太政官符が若狭国へ下され、「唐人解文」も若狭国に返却されていることがわかる。そして二十七日には、藤原道長が陣の座において「唐人解」と「若狭国解」を公卿らに下している(『小記目録』)。さらに、十月六日に道長のもとより一条天皇に奏上すべき解文のなかには、若狭・越前国からのものも含まれていたが(『本朝世紀』・『権記』)、これはおそらく、朱仁聡らに関する内容であろうと推測される。とすると、九月下旬から十月初旬まで、公卿らは「唐人」について連日のように審議を行っていたことになる。そして結局、一条天皇により朱仁聡らを若狭国から越前国に移し安置する決定が下されたことが知られる。
 長徳元年では、これ以降「唐人」の記事はみえないが、朱仁聡らはこの冬を越前国で過ごしたらしく、さらに翌二年にも越前に滞在していたらしい。というのは、『日本紀略』長徳二年十月六日条によれば、「大宋国商客」朱仁聡のことを陣定で審議しており、また十一月八日条によれば、明法家に対して「大宋国商客」朱仁聡の罪名を勘申(調査・答申)することを命じて、明法博士令宗允正が勘申していることが知られるからである。この朱仁聡の罪名とは不明であるが、閏七月十七日に「唐人」(「大宋国人」)が鵝・鸚鵡・羊を献じて入京しているので(『小記目録』・『日本紀略』、『江記』逸文寛治七年十月二十一日条)、おそらくはこの入京した「唐人」が、越前国滞在中の朱仁聡らである可能性が高い。なお、この時に献上された鵝・羊などは、翌三年九月八日に朱仁聡らに返却されている(『日本紀略』)。
 また、同三年も朱仁聡らは滞在していたと思われる。それは十月二十八日に若狭守源兼隆(澄)が「大宋国商人(客)」朱仁聡らに陵轢されたという記事がみえ(『小右記』・『小記目録』、『百練抄』十一月十一日条)、十一月十一日には、明法家に若狭守を陵轢した朱仁聡の罪名を勘申させている(『百練抄』)。また、『小右記』長徳三年六月十三日条によれば、高麗国の牒に関連して、越前・大宰府に滞在中の「大宋国人」を帰国させることを審議したとあることから、朱仁聡らが引き続き若狭・越前国に滞在しながら比較的自由に活動し、若狭守とトラブルを起こしていたことが知られるのである。
 ところで、朱仁聡らがいつごろ帰国したかは明らかでないが、長徳四年七月十三日に朱仁聡と同船の宋僧斉隠が持参した大宋国杭州奉光寺の僧源清の牒二通に対して、返牒を作成すべきことを大江匡衡・紀斉名に命じた記事がある(『権記』、『本朝文粋』)。したがって、もし同じ船で帰国したとすれば、これ以降に帰国したことになる。ところが、『権記』長保元年(九九九)七月二十日条によれば、石清水八幡宮に物品を貢献する朱仁聡の使が修行僧に捕らえられたことを訴える石清水八幡宮の申文を、藤原行成が藤原道長に進めている。さらに翌二年八月二十四日条によれば、これより以前のことで、「大宋商客」朱仁聡が越前国にいた時に献上させた雑物の代金を皇后宮(藤原定子)が遣わすが、朱仁聡が大宰府に行ってしまったため未納となり、朱仁聡に訴えられるという事件が伝えられている。これに関連して、長保二年十二月十六日、中宮亮高階明順(この時の中宮は藤原定子)が「唐人」の訴えにより召問われていることがみえる(『小記目録』)。これらのことから、長保元年・同二年ごろにはおそらく皇后宮の使が敦賀津に派遣され、朱仁聡らから「唐物」を購入していること、そののち、遅くとも長保二年には朱仁聡らが越前国から大宰府に移っていることが知られるのである。
 このように、長徳元年より長保二年までの約五年間、若狭・越前国に「唐人」朱仁聡らが滞在したものと考えられ、その間には交易を中心とした交流があったと思われる。その様子を二例についてみることにする。
 



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