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 第四章 律令制下の若越
   第五節 奈良・平安初期の対外交流
    三 松原客館の実態とその位置
      松原客館と「松原倉」
 松原客館に関連して、最後に「松原倉」について述べておく。『延喜交替式』や『延喜式』民部下によれば、大宰府の場合、「大宰府蕃客儲米」が三八四〇斛(石)貯蓄されていたことが記されていることから、大宰府鴻臚館には「蕃客」をもてなし、供給するための米を収納する倉庫群が存在したことが想定される。これに関連し、松原客館にも同様な施設があったと想定し、『続日本紀』天平神護二年二月二十日条に「宜しく近江国近郡の稲穀五万斛を募り運び、松原の倉に貯え納めしむべし」、同年六月十二日条に「勅して、去ぬる二月廿日、近江国近郡の稲穀五万斛を募り運び、松原の倉に貯え納めしむ」とみえる「松原倉」を松原客館に付属する倉とする説がある(瀧川政次郎「能登国福良の津の渤海客館址」『歴史地理』九〇―三、『敦賀市史』通史編上)。
 しかし、厳密にいえば「松原客館」の確実な史料が十世紀以降であり、それも客館は駅館と併存している可能性が高く、その存在はさかのぼっても九世紀代と思われることに加え、「松原倉」には国名が越前国とはついておらず、天平神護二年において五万斛にものぼる稲穀を渤海使のために保管する必然性にも乏しい。また延暦十二年二月二十七日に越前国に下した太政官符によれば、気比神宮に「神庫」があったことがわかるが、それは「祭料」を納めたものである。さらに弘仁十三年(八二二)三月二十八日に出された太政官符によると、右にみた天平神護二年二月二十日の勅書を引用したあと、「旧例」により近江国の縁江郡(琵琶湖沿岸の郡)の穀一〇万斛を穀倉院に運ぶことを指示しているが、ここからは平安京の穀倉院に対応するものが天平神護二年の「松原倉」であることが知られる。
 以上のような理由から『続日本紀』にみえる「松原倉」は松原客館とは関係なく、『続日本紀』天平十七年(七四五)五月十八日条にみえる「松林の倉廩」と同じく、平城宮の北に位置する松林宮の倉とする説に従っておく(松原弘宣「松原倉をめぐって」『続日本紀研究』一九八、岸俊男『日本古代宮都の研究』ほか)。しかし、松原駅館・客館に付随して倉が存在したことは十分予測されるところであり、今後、比定地調査の際の目安となろう。



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