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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
    四 嶺南地方の条里
      遠敷郡の条里地割分布
 『延喜式』などによれば、若狭国三郡は三方・遠敷・大飯郡とある。しかし、大飯郡は
天長二年(八二五)七月に遠敷郡の西半分を割いて建てられたので、それ以前は遠敷郡域に含まれていたことになる。事実、藤原宮・平城京跡出土木簡に記された郷里名より、奈良時代の遠敷郡域は現在の大飯郡域と京都府舞鶴市域の一部にも及んでいたことが判明している。
 この遠敷郡は、南側の海抜八〇〇メートル前後の湖北山地を背にしており、また若狭湾に面した海岸線は、リアス式の出入りの多い複雑な状況を呈している。若狭湾には北川・南川・佐分利川・子生川・関屋川などの各河川が流入し、それらは狭小な沖積平野を形成している。
 そのうち、小浜平野は北川断層によって陥没した地溝を流下する北川の中・下流域と南川の下流域に開けた沖積平野である。この北川流域では、海抜一五メートルの平野・野木から二・五メートルの府中・和久里にかけての沖積地に最も多くの条里地割が分布する。小字は一町方格ないし二町方格のものが多く、大字界もこの区画線と整合している。地割の方向は、流路に沿ってほぼ北一七・五度東の傾きをもっている。この規則正しい地割のなかで、遠敷集落付近から北西の水田にかけては地割が激しく乱れており、遠敷川のかつての流路を想像させる。
 北川支流域にあたる沈降性の埋積谷にも条里地割の分布がみられる。鳥羽川流域では、流路の方向に従って幾重にも折れて分布している。その上流域の無悪では北三三度西、三田では北一〇度西の地割である。また、下流域の有田・上吉田・下吉田には北五度東の条里地割がまとまって分布している。堤川上流の杉山、野木川流域の加茂・宮川では流路の方向に条里地割が分布する。とくに、加茂には東から西へ「一ノ坪」から「五ノ坪」まで連続した遺称地名をもつ一町方格の地割が残っている。太良庄には、北二〇度東の長方形の大きな区画をもつ地割がみられるが、一町方格の条里地割に直接関連するものではないであろう。旧国富村の高塚・栗田やその北部に続く次吉・羽賀・奈胡・熊野には北二〇度東の地割が分布する。ただこのなかには、羽賀から熊野にかけて北二度東の地割が挟まっており、羽賀の「五ノ坪」、奈胡の「七ノ坪」「八ノ坪」、熊野の「東坪」「上東坪」の小字区画は内部の畦畔が周辺の条里区画とは異なっている。
 内外海半島の小浜湾入口に面した堅海には、集落南部の水田地帯に遺構が認められるが、規模は約二〇町未満で、坪並の復原は不可能である。地割の方向はわずかに東に傾いている。
 佐分利川流域では、下流域の本郷・岡田に北二五度東に傾いた条里地割が広がっている。とくに本郷集落南部から野尻集落付近にまとまって分布する。また、上流域の万願寺・岡安付近では北五度西に傾いた条里地割が散在する。条里関係地名と考えられるものとして、本郷には「鉢ケ坪」「西鉢ケ坪」「下鉢ケ坪」、万願寺には「八町」がある。さらに、岡田の「境」「下境」と野尻の「下堺」「上堺」は、直線状の大字界を挟んで位置している。この大字界の六町北は、岡田と本郷の直線状の大字界であり注目される。
 現在の高浜町域の条里地割はきわめて散在的である。条里関係地名としては、和田に「市ノ坪」、子生川流域の宮崎に「櫟ノ坪」があるだけである。また関屋川流域にも、わずかに条里地割がみられる。



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