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 第四章 律令制下の若越
   第四節 開発と土地管理
     二 嶺北地方の条里
      丹生郡条里の復原
 当郡は条里地割の遺存が最も良好な地域であり、その各所には数詞をともなう小字地名が認められる。したがって、坂井・足羽郡と同様に、郡を四象限に区分する四分法で坪並配列は千鳥式、といった統一的な条里プランを想定することによって、図79に示したA〜Zの里を復原することができる。条里関係地名と考えられる小字地名から、A〜Mは東北条里型坪並、N〜Pは東南条里型坪並、Q〜Wは西北条里型坪並、X〜Zは西南条里型坪並にそれぞれ適合する各里の区画を検出できるのである。これら各里の配置から、南北基準線はNS1〜NS8の位置に、また東西基準線はEW1かEW2の位置に想定できることになる。
図79 丹生郡の条里復原説明図

図79 丹生郡の条里復原説明図

 天平神護二年(七六六)十月二十一日付「越前国司解」(寺四四)に、丹生郡椿原村の東大寺田の所在が条里呼称法にもとづいて記載されている。それによれば、西北十八条一・二里、同十九条一・二里に分布していたことがわかる。大治五年(一一三〇)三月十三日付「東大寺諸荘文書并絵図等目録」(寺六四)には、同村の四至を「東公田 并鴨河 南公田 西百姓地并石立江 北秦綿山」としているので、周辺の景観を知ることもできる。そこで、前述の里の区画の延長上で、この椿原村の東大寺田の所在が耕地部に立地し、また四至の地理的条件を満たす位置を求めなければならない。その場合、南北基準線はNS7、東西基準線はEW2に想定するのが最も適合性が高い。
 嘉応元年(一一六九)十一月「権大僧都顕ー解」(文一九六)に、丹生北郡大蔵荘の四至記載がある。そのうち、南限は七条二里とある。大倉(鯖江市)が大蔵荘の遺称地名と考えられるので、NS7・EW2を南北・東西両基準線とした条里プラン上での大倉の位置は、(西北)七・八・九条二里に相当することになる。したがって、大蔵荘の四至記載とも矛盾はない。
 建久三年(一一九二)八月十八日付「橘行盛譲状案」(醍醐寺文書『資料編』二)に、今南西郡真柄保の四至が「東限郡境并原路 南限日野白峰 西限尾山峰并二条五里十八坪 北限二条縄」と記載されている。上真柄・真柄(武生市)をこの真柄保の遺称地名と考えれば、南限の「日野白峰」を日野山、西限の「尾山峰」を杉崎山(岩内山)に想定できることになる。NS7を南北基準線と考えれば、杉崎山から北に延びる直線状の大字界が(東南)二条五里十八坪西界に一致し、また、東西基準線をEW2と考えれば、(東南)一条と二条の東西里界線が上真柄・真柄の北大字界付近を通ることになる。したがって、NS7・EW2は南北・東西基準線としての妥当性が高く、真柄保の四至記載とも矛盾はない。
 以上のことから、復原したものは、図79に示したようなNS7・EW2を南北・東西両基準線とし、大勢として南北線が北約一度西に傾く条里プランである。南北基準線は福井市と鯖江市との境界になっている天神山から武生市家久町の船岡山を見通す線で、ほぼ日野川の流路沿いにあたり、それは北から清水町片山、福井市三尾野町、鯖江市平井町、武生市市街地中心部に至る位置となる。東西基準線は、三里山南麓付近と武生市北山町の船山南麓付近を結ぶ線で、それは東から今立町粟田部、武生市村国町・北府町を通って、同市丹生郷町の北大字界に至る位置となる。南北・東西基準線の交点は武生市北府町である。



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