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 第四章 律令制下の若越
   第三節 都につながる北陸道
    一 官道の役割
      濃飯駅
図67 小浜市平野付近の小字

図67 小浜市平野付近の小字

 濃飯に似た郷名に「野里」がある。上中町の野木は野里の転訛した地名であろうから、野木を含む一帯に野里郷を比定することができる。濃飯駅の比定地については大別して野木説と平野説があるが、いずれも決め手を欠いている。上中町下野木にある小字「上前田」「下前田」は駅田(まやだ)の転訛したものであり、「小倉谷」は駅倉の存在を思わせるものであるとして野木に濃飯駅家があったのではないかというのが野木説(小浜市教委『玉置遺跡』二)。北川左岸小浜市平野には「駒田」(駅田)「西街道」「谷清水」「大農手」(野郷・濃飯と関係するか)などの小字があり(図67)、このあたりに「濃飯駅」が置かれたものと思われるというのが平野説である。いずれにしろAルートで若狭に入った駅使は、北川沿いをほぼ西に進み濃飯駅家からさらに西の若狭国府へ赴いたのであろう。ところが、表に「玉置駅家三家人黒万呂御調三斗」、裏に「天平四年九月」と書かれた調塩の付札(木二七)が平城宮跡で発掘された。この木簡から天平四年には「玉置駅」があったことがわかった。上中町玉置に「的場」「清水」「殿道」「松木」(馬次・馬継ぎ)「殿蔵」など駅家の存在を思わせる小字があるのは、かつての玉置駅家の関係からかもしれない。なぜ駅家を変更しなければならなかったのであろうか。大仏開眼供養が行われた天平勝宝四年(七五二)十月二十五日付「造東大寺司牒」(文二二)によると、東大寺へ一〇〇〇戸の封戸を充てている。このうちに遠敷郡玉置郷五〇戸が含まれていた。東大寺の封戸となった玉置郷は、駅戸としての任務を果たすことができなくなったためか、駅家の位置を変えざるをえなかったのである。表に「若狭国遠敷郡野駅家(大湯坐連×御口×)」、裏に「十月十五日」と書いた年代のわからない貢進物付札の断片(木五九)が平城宮跡から発掘された。同じ堆積層から天平勝宝年間(七四九〜五七)の木簡が出土しているので、この木簡もこのころのものと考えられる。「野駅家」というのは「濃飯駅家」のことであろう。天平勝宝四年以後駅家を濃飯へ移したものと考えられる。弥美駅へ向かう道は北川右岸を東へ進み、倉見峠を越えて三方郡に入った。



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