目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭・越前からの貢納の旅
 若狭は近国、越前は中国だったから、前者は十月、後者は十一月末までに調庸を都まで納入しなければならなかった。調塩に付けられた若狭の荷札木簡をみていくと、三方郡と遠敷郡とでいくつかの相違がみられる。すなわち(一)遠敷郡には年月日あるいは月日の記載があるのに、三方郡にはない、(二)遠敷郡の木簡には表裏両面に文字を記したものが多いのに、三方郡では片面にしか記載しない、(三)遠敷郡では郡名まで書いたのち、郷里名あるいは里名以下を割書きにする例が多いが、三方郡では郷里名あるいは里名まで一行に書き、人名以下を割書きにするものが多い、などの相違点がある。また書風についても、遠敷郡の木簡では筆の穂先を使って書いた細みの文字が多いのに対し、三方郡はやや太めの闊達な書風であると指摘されている(今泉隆雄「貢進物付札の諸問題」『奈良国立文化財研究所研究論集』四)。こうした両郡木簡の相違は、荷札木簡が国衙ではなく、それぞれの郡衙で作られたことを想像させる。郡衙段階で税物は計帳などと照合され、貢進者・量・品質などの検査が行われ、合格すれば荷札木簡が作成され荷にくくり付けられた。それは直接には国衙での税物の検査に備えるためのものであったが、そのまま都にまで税物に付けられたまま運ばれた。
図60 都への貢納経路

図60 都への貢納経路

 調庸は本来それを負担した人自身が都まで運ぶことになっていた。しかし実際にはすべての人が上京したわけではなく、各村から代表が税を運ぶ役の運脚となり、その他の人びとは運脚の費用(脚直料)を負担した。彼らは陸路を自ら税を担いで運ぶのを原則とした。馬や車は貴重品であったし、当時の道路事情からすれば、よく整備されていた畿内以外の道で車を走らせることは困難であったのである。
 『延喜式』主計上によると、都までの行程は若狭は「上三日、下二日」、越前は「上七日、下四日」である。これは平安京までであるから、平城京まではさらに一日ほど余計にかかったであろう。「上」が「下」より日数が多いのは、税物を運ぶため手ぶらの帰りより、一日に進む距離が短いためである。
 彼らは国司・郡司に引率されて都へと向かった。その経路は北陸道であったろう。若狭からは小浜市にあった国衙から若狭街道を通って、琵琶湖沿岸に出た。北陸道はその西岸を走る西近江路にあたり、それを南下し逢坂に至ってからは、さらに南へ下り宇治を通り平城京へ、あるいは平安時代になると西へ曲がり平安京へと進んで行った。
 ところで『延喜式』主計上には先ほどみた行程のほかに、越前については「海路六日」という記載がある。陸路以外の経路があったのである。陸路とともに海路記載のあることは、越中・加賀など越前以遠の北陸道諸国についても同様である。この海路の規定は『延喜式』主税上の諸国運漕雑物功賃条にみえる。それによれば、越前では比楽湊から敦賀津までが船、敦賀から琵琶湖北岸の塩津までが馬、塩津から琵琶湖南岸の大津までが再び船というものである。比楽湊は加賀の手取川河口に比定される湊である。したがって比楽湊から敦賀津への運漕は加賀以遠の諸国にあてはまる。また同条には若狭についても海路の規定があり、勝野津から大津までが船となっている。この勝野津は琵琶湖西岸の高島町にあたる。
 このように海路は『延喜式』段階の十世紀には規定されているわけであるが、それ以前のいつから採用されたかは不明である。しかし船のほうが大量にかつ速やかに輸送できたこと、とりわけ米のように重い物は人力で運ぶより、船で運ぶほうがはるかに楽であったことからすると、かなり早い段階から船が調庸の輸送に用いられていた可能性はあろう。「百姓脚直料」によって造るという課船が、営繕令集解有官船条に引く古記(大宝令の注釈書)にみえるのも、そのことを物語るものである。また東大寺領荘園で米を船を用いて運んでいることも参考になろう(第五章第二節)。



目次へ  前ページへ  次ページへ