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 第四章 律令制下の若越
   第二節 人びとのくらしと税
    二 荷札木簡と税
      若狭の庸
 庸は、本来一年に一〇日間、京・畿内以外の人びとが都城で力役に従う歳役を、布や米で代納するものである。しかし日本では歳役を実施したことはなく、初めから代納の庸を取ったようである。そして庸は、衛士・仕丁・采女・女丁など都城に動員されて働く人びとの食料や役民の雇用の財源として重要なものであった(賦役令計帳条)。平城宮跡では、
 ・×敷郡・<青郷川辺里>庸米六斗<秦□>
 ・  天平二年十一月・(木二六)
という若狭の庸米の木簡が一点出土している。この木簡は上端が折損しているが、遠敷郡のものである。青郷川辺里は、現在の舞鶴市の河辺川流域の大浦地区の字河辺原・河辺由里付近に比定される。ここはのちには丹後国に属する地域である。当時の青郷は、のちの丹後の一部にまで入り込んでいたのである(第一節)。
 『延喜式』主計上でも、若狭の庸は「輸米」と規定されている。これによれば、『延喜式』段階では若狭の庸は米だけだったようである。庸は前述のように、衛士などの食料に充てられたが、米の場合、彼らに支給された量は一日あたり二升であった。したがって一月では、三〇日ある大の月は六斗、二九日の小の月の場合は五斗八升となる。それに合わせて庸米は荷造りの段階で、六斗ないし五斗八升の俵にされていたことが、平城宮跡から出土した多くの庸米の木簡によって知られている。また滋賀県高島郡高島町の鴨遺跡からは、「遠敷郡<遠敷郡小丹里秦人足嶋庸米六斗>」(木七八)という木簡が出土している。なぜ若狭の庸米木簡が近江国で出土したのだろうか。若狭から京への途中ではずされたか、それとも落ちたのか、あるいは中央にいったん納入されたのち鴨にあった官衙に運ばれてきたのかなど明らかではないが、これも若狭が庸米を出していることを物語るものである。なお平城宮跡からはほかに、
 ・「<若狭国遠敷郡玉置郷<田井里秦人足結庸粟六斗>  <」
 ・「<養老二年十月        <」(木補二)
という木簡が出土している。粟を砕いて粉にしたものであろうか。米以外のものを庸として出していた場合のあることを物語るものである。



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