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 第四章 律令制下の若越
   第一節 地方のしくみと役人
    二 若越の郷(里)
      越前国の郷(里)の特徴
 以上述べてきた越前国の郷(里)についての特徴としてまず気づくことは、東大寺領荘園関係の文書に多数郷名がみえることである。東大寺領荘園とその関係文書の詳細は第五章で述べるが、荘園の内部あるいは周辺に口分田や墾田を所有していた百姓の本貫の郷が記されることが多い。そしてなかには東大寺と相論を起こしたり、東大寺に墾田を売却したり(させられたり)した百姓もいたのである。口分田はおおむね同郡内に班給されていたが、それでもかなりの遠隔地に給せられていた例が多くみられる(第二節)。また坂井郡の地に足羽郡・敦賀郡の百姓の口分田が郡界を越えて班給される場合もあったが、敦賀郡については、先に述べたように郡域が後世よりはるかに北にのびていたことを考慮する必要があろう。
 木簡では長屋王家木簡にみえるものが多いのが目をひく。これは長屋王家ないし北宮(吉備内親王の宮)の封戸が、越前国に多く設定されていたことによると考えられている。今後さらに越前国と長屋王家とのかかわりが明らかになるかもしれない。
 郷の立地については、若狭国で述べられているように、河川流域に分布することがわかる。ただし九頭竜川のような大河川の氾濫原は比較的まばらで、広大な平野では周辺の安定した地域の密度が高い。そのような地域を本貫とする百姓が、東大寺などの勢力と競合・依存しあいながら平野部の開墾をすすめていったのであろう。
 一方、敦賀郡の鹿蒜郷、敦賀・丹生両郡の従者郷に典型的にみられるように、山間部の郷の存在も特徴として指摘できる。そのうち従者郷は武生市南部の日野山西麓から、今庄町の日野川上流域一帯にわたる非常に広い範囲に比定されており、両郡の郡界をはさんで立地していたことが注目される。先に述べたように、敦賀郡の従者郷が「国司解」の「質覇郷」から、丹生郡の従者郷(里)が長屋王家木簡から、それぞれ奈良時代に実在したことが確かめられ、決して『和名抄』の重出でないことが証明できることは貴重である。
 このように同名の二つの郷が郡界に接して存在した例としては、ほかに山背国宇治郡・久世郡の宇治郷、伊勢国桑名郡・朝明郡の額田郷、備後国奴可郡・三上郡の三上郷、美濃国賀茂郡・可児郡の曰理郷などがある。このうち宇治郷・曰理郷の例は、郡界をなす河川の両側の郷が渡河点で結びついているという特徴がある(『宇治市史』一)。また、河内国丹比郡の依羅郷と摂津国住吉郡の大羅郷はもとは「ヨサミ」の屯倉があったところで、のちに国境を接して二つの郷として編成されたのであろう。なお郡界をはさんでいるという点で、郷ではないが、近江国の「覇流村」が犬上・愛智両郡にまたがっていたことも参考になる(天平勝宝三年「近江国覇流村墾田地図」)。「村」は行政村落である「郷」と同一視できないが、郡界と村落地名との関係を知るうえで興味深い例といえる。



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