目次へ  前ページへ  次ページへ


 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第三節 若越の神々とケヒ神
    一 在地の神々
      式内社の祭神から
 祭祀遺跡の発掘例が少ない現在では、古代の若越の神々や神々への信仰のあり方を探るには、やはり『延喜式』神名帳をまず手がかりとせざるをえない。しかし、いうまでもなくそれは十世紀の初頭に編纂されたものであり、その示すところの神々への信仰はかなり原形から変化をうけている。まして、現在における式内社は、江戸時代(とくに天明年間以降)から近代(とくに日露戦争後の明治四十年代初めと、太平洋戦争中の昭和十年代末)に多くの変容をうけた姿になっている。そうしたことを配慮したうえで、以下に、古代の若越の神々について考えてみたい。
 若狭国四二座(大三座・小三九座)、越前国一二六座(大八座・小一一八座)の現在の祭神でさえ、各社についての周到な調査にもかかわらず、現社地さえも含めて不詳のものが少なくない。その数は、若狭では十数社、越前では三〇余社に達する(『式内社調査報告』一五)。この調査報告の結果をうけてのことだが、祭神についての全体的傾向をおさえてみると、以下のようにいえるように思う。
 まず、現時点での諸社の祭神は、ほとんど後世に変えられて今日に及んでいる。すなわち、第一は、『記』『紀』神話にみえる天つ神系の神々や天皇・皇后である。アメノミナカヌシ(天御中主)神・イザナギ(伊邪那岐)神・ヒコホホデミ(彦火火出見)神・オオヤマクイ(大山咋)神・フツヌシ(経津主)神・ワケイカヅチ(別雷)神・住吉三神、神功皇后・応神天皇(ホンダワケ命)・継体天皇などがその例である。あるいは、アメノコヤネ(天児屋根命)神などもある。これらは、元来、土地の開発神、山や海への自然信仰をベースにして、それぞれにかかわる『記』『紀』神話の神々や天皇・皇后を配したものであろう。別のいい方をすれば、中世以降に盛行した春日信仰・八幡信仰・大三輪信仰・丹生信仰なども介して主に近世以降、なかには近代の日露戦争後に定着したらしいものが多い。第二は、出雲(それも『出雲国風土記』)系の神々である。オオナモチ(大穴持・大己貴)神・スクナヒコナ(少彦名)神・コトシロヌシ(事代主)神などで、これらは近世以降に『記』『紀』の「出雲国譲り神話」の影響をうけていることはもとよりである。しかし、第一にみたような事情による変容はうけていないから、対馬海流による出雲神話圏との交流がベースになっていた可能性も強い。
 そうした祭神がみえる一方で、意外に白山信仰の影響が少なく、敦賀郡の横椋神社の祭神にわずかにみえる程度である。同じ北陸でも、加賀・能登と比べて大きな違いであり、信仰圏は西方から東方へという動きが底流であったことは、第二の出雲系神々への信仰と考えあわせば明らかであろう。
 しかし、若越をとおして全体的にみれば、右のいずれかが支配的とかとくに目立つというわけではなく、ほかの大部分の式内社の祭神はそれぞれ個別的で傾向は分散的である。現在では、最初に述べたように祭神不詳のものが多いのは、こうしたこととかかわるのであろう。若狭において、その傾向はいっそう目立つ。その一方で、越前らしい特色は、戦国期末の一向一揆によって破壊された神社が、その後に新しい祭神を祀ったような例である。坂井郡の三国神社が、一向一揆で焼け落ちたあと、再興にあたってオホド王(継体天皇)を祭神としたように、である。さらにいえば、天つ神系の祭神、たとえば、ヤマト朝廷と深く結合していった気比神でさえ、若越の地域社会には支配的にならなかったこと自身、一つの特色であったといえる。
 若越の式内社の小社についてだけではなく、大座、すなわち名神大社についても、以上のような全体的傾向のもとで、その在地的性格を失わなかったことを理解する要があろう。すなわち、若狭における遠敷郡の若狭比古神社と三方郡の宇波西神社の祭神(不詳)、越前敦賀郡の気比神社などについてである。このうち、国家的尊信をえていった気比神社の祭神でさえ、少なくともその原像は、きわめて地域色在地色が強い。これらについては、以下においてさらに述べる。



目次へ  前ページへ  次ページへ