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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第二節 若越における古代文化の形成
    三 遺跡の語る日本海文化
      特殊な遺物
 畿内を中心に各地にみられる普遍的な遺物と、地方に偏在する特殊な遺物との相対的な関係は、とくに注目されている。前者は畿内の盟主から配布されたもの、後者は地域の首長が独自に入手したものと考えられるからである(『資料編』一三)。とくに後者は、六世紀前後のヤマト朝廷の力が弱体化し、不安定であった時期の地域の古墳から出土している。その特殊な遺物としては、須恵器の角坏(獅子塚古墳・興道寺窯跡、写43)、金銅冠(十善の森古墳)、鍍金冠・鍍銀冠(二本松山古墳)などがあげられる。これら朝鮮半島系の遺物は、当時全国的にみて、希少な遺物であり、それぞれの古墳の被葬者が、九州などから独自に入手したと考えるのが自然であろう。
写真43 獅子塚古墳出土の角杯

写真43 獅子塚古墳出土の角杯

 以上、越前・若狭と日本海域との交流の痕跡を示す考古資料についてみてきたが、これ以外にも、当地と吉備や尾張との交流を示すものもある。従来からいわれていた当地と畿内の交流以外にも、各地域間との交流は広く行われていたのである。このような、当地と各地域間の交流のあとが少なくなり、畿内との交流が主になるのは六世紀末以降のようである。すなわち、このころになるとヤマト朝廷は中央集権的な地域支配の構造を確立し、地域の首長層が官人化されていくことと表裏する事象といえよう。



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