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 第三章 コシ・ワカサと日本海文化
   第一節 古代貴族のコシ・ワカサ観
    三 ヤマト貴族のワカサ観
      ワカサのミミ
 藤原京跡出土木簡に「□□評〔三方〕耳五十戸」(木一〇)、「三方評耳里」(木一一)、「美々里」(木一七)と記したものがある。この「耳里」(=耳五十戸・美々里)の里名は、平城宮跡出土木簡には「若狭国三方郡耳郷中村里」(木五一)とか、「三方郡弥美郷中村里」(木五二・五三)とみえるように、律令制下の郷里制においても郷名としてひきつづき認められていた。現在の美浜町の耳川流域一帯に比定され、耳川東岸には式内社の弥美神社があり、北陸道の弥美駅もこの付近と考えられている(第四章第三節)。律令制下の郷名としては、ミミというのは若狭のものが全国唯一である(『和名類聚抄』)。この里名・郷名は何を意味するのであろうか。
写真38 弥美神社

写真38 弥美神社

 「耳」は、姓の制よりも古くから人名や地名に付し、その地の豪族への敬称であったとされる(太田亮『日本上代に於ける社会組織の研究』)。六〜七世紀には坂田耳子郎[君・王](『紀』欽明天皇三十二年三月壬子条、敏達天皇十四年三月丙戌条)とか豊聰耳皇子(『紀』推古天皇元年四月己卯条)のようにヤマト朝廷中央の王族にも、『紀』では神代巻の神名(忍穂耳尊、手耳、神八井耳尊など)や欠史八代の最初の天皇諡号(神渟名川耳尊)、『記』は神沼河耳命=綏靖天皇)にも用いられるようになっていたが、元来は地方首長への敬称であったらしい。『肥前国風土記』の土蜘蛛の大耳や耳垂の例(松浦郡値嘉郷条)、『紀』では和泉の陶津耳(崇神天皇七年八月己酉条)や但馬の前津耳あるいは太耳(垂仁天皇八十八年七月戊午条)、狭(宇佐)の耳垂(景行天皇十二年九月戊辰条)などほかにもいくつかの例がみられる。これらの「耳」の称は、すでに『魏志』倭人伝に投馬国の「弥々」「弥弥那利」と記すように、地域の古い官名に発した可能性があると思う。それはともかく、若狭の「美々里」「耳里」や「弥美郷」「耳郷」の地名も、以上のような例と関連づけて理解できるのではあるまいか。
 すなわち、これらの地は、元来「(ワカサまたはミカタの)ミミ」が居たところ、と解せられるであろう。少なくともそれは、在地の神とされる遠敷郡の式内社の若狭比古神社の祭神「比古」に劣らぬ古称といえるであろう。耳川や弥美神社の呼び名も、その地名から生じたものとみられる。
 ヤマト貴族のワカサ観の特色は、以上のようなところに現われているといえるであろう。つまり、かつて地域首長を制圧し服属させたことはほかの地方と同様であり、その名も消失したものの、その首長が拠り所としていたところの地名には、古代でも唯一つ、かれへの敬称ミミを付したのをそのまま認めていたのである。若狭は、ヤマト朝廷の「御食国」として早くから聖塩を貢上しただけに(第二章第四節)、その首長と配下の民衆には特別の配慮をしたものと思われる。



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