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 第二章 若越地域の形成
   第一節 古墳は語る
    一 前方後円(方)墳の出現と社会
      前方後円(方)墳の出現と波及
 前方後円(方)墳の最も古い段階(三世紀後半〜四世紀初頭)のものは、近畿・瀬戸内海沿岸・九州北部に分布し、そのうち最大規模のものが大和に所在することから、大和を盟主として各地の首長が連合して前方後円(方)墳を創出したと考えられている。
 これらの古墳は、撥形の前方部を有する大規模な墳丘、長大な割竹形木棺を竪穴式石室におさめた埋葬施設、多数の銅鏡をはじめとする呪術的色彩の濃い副葬品というように、画一的な内容をもち、一定の決まりにもとづいて築造されている。
 出現期の最大規模の前方後円墳は、奈良盆地東南部の三輪山の麓に位置する箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約二八〇メートル)であり、次が椿井大塚山古墳(京都府山城町、約一九〇メートル)である。このほかでは、浦間茶臼山古墳(岡山市、約一四〇メートル)、石塚山古墳(福岡県苅田町、約一二〇メートル)が大きい方である。前方後方墳では、元稲荷古墳(京都府向日市、約九四メートル)が最大規模である。当時、大陸からの新しい文物の受け入れ口である玄海灘沿岸地域には、那珂八幡古墳(福岡市、約七五メートル)が所在するのみである。
 これらの事実から、前方後円(方)墳の創出は、畿内と瀬戸内海沿岸地域の有力首長が大陸の鉄をはじめとする新しい文物を安定的に手に入れるために連合し、九州北部を制圧する必要性を契機になされたと考えられている。この連合政権をヤマト政権と考古学者はよんでいるのである。
写真29 安保山1・2号墳

写真29 安保山1・2号墳

 越前での最古の前方後円墳は、撥形前方部をもつ安保山二号墳(福井市、墳丘長約三四メートル、写真29)、今北山古墳(鯖江市、約七六メートル)、長泉寺山古墳(鯖江市、約五二メートル)などがある。発掘調査されているのは安保山二号墳のみであり、盗掘されていたものの後円部の墓壙に箱形木棺が埋置され、棺内より鉄剣二が検出されている。なお、地元では銅鏡の出土を伝えるが明らかではない。墳丘のまわりには、六基の方形周溝墓が所在し、地域首長とその関係する有力家長との親しい間柄が推測できる。築造時期は、溝内より検出された土器より四世紀初頭ごろと考えられる。一方、最古の前方後方墳は発掘調査例がなく明らかではないが、撥形前方部をもつ明神山一号墳(敦賀市、約四八メートル)があげられる。角礫の葺石をもち、後方部は二段築成である。後方部に竪穴式石室を有する。尾根先端部に立地し、古墳からは敦賀湾が一望に見渡せ、被葬者は海と関係が深い地域首長と考えられる。
 若狭での最古の前方後円墳は明らかでないが、前方後方墳では松尾谷古墳(三方町、約四〇メートル)がある。現時点で若狭における最初の地域首長墳である。墳丘の後方部は二段築成である。尾根上に立地し、後方部・前方部にあわせて三つの埋葬施設があり、副葬品は碧玉製管玉三、武器(鉄剣三)、工具(鉄刀子一・鉄二・鉄斧一)である。出土した土師器より四世紀初頭に築造されたと考えられている。
 北陸道の入口に位置し、畿内に最も近い越前・若狭に、前方後円(方)墳の波及の早かったことが理解でき、今北山古墳の墳丘規模が椿井大塚山古墳の五分の二の規格で造られていることやその規模が大きいことなどから、前方後円(方)墳の創出に越前の勢力も深く関与していた可能性も考えられる。
図18 手繰ケ城山古墳墳丘の実測図

図18 手繰ケ城山古墳墳丘の実測図

 しかし、畿内にみられるような本格的な古墳の出現は、四世紀中葉〜後葉に比定される手繰ケ城山古墳(永平寺町・松岡町、一二五メートル)が最初で、北陸道のみならず日本海域で最大である。標高約一六〇メートルの山頂に立地し、墳丘は二段築成である(図18)。墳丘の表面には数十万個の葺石、裾部・中段・墳頂には三千本近くの埴輪、後円部には割竹形石棺をもつと推定されている。地域首長墳の上にたつ広域首長墳の誕生とその威容を示している。
 これは、越前の広域首長がヤマト政権のなかで重要な一翼を担ったことを示す。それは、ヤマト政権が連合の首長に配布した石製宝器(鍬形石・車輪石・石釧など)の生産を受けもったことによると考えられるのである。
 越前以北における古墳の波及をみると、三角縁神獣鏡を出土している古墳は、足羽山山頂古墳(福井市、円墳?)と小田中親王塚古墳(石川県鹿島町、円墳、径約六七メートル)があり、石製宝器を出土している古墳は、立洞二号墳(敦賀市、円墳、径約二三メートル)、西山九号墳(鯖江市、円墳?、径約二〇メートル)、小山谷古墳(福井市、円墳?)、竜ケ岡古墳(福井市、円墳?)、小田中親王塚古墳、桜谷二号墳(富山県高岡市、帆立貝形前方後円墳、全長約五〇メートル)がある。このほか、鹿伏山(新潟県相川町)からは銅鏃・車輪石・石製剣が出土したと伝えられ、宮内庁に所蔵されている。これらの事実から四世紀末葉ないし五世紀初葉ごろまでに、北陸道域に広く古墳文化の波及したことがうかがえるのである。



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