目次へ  前ページへ  次ページへ


通史編序説
  宗教と文化
    四 文化の諸相
      幸若舞
 『康富記』の宝徳二年(一四五〇)二月十八日の条に、「越前田中香若大夫」が室町殿に参じて久世(曲)舞を舞ったことを記すが、十五世紀中ころには幸若の舞曲は京に進出して武将らの愛顧をうけていた。曲舞とは節をつけて物語を聞かせながら舞うものであり、十四世紀ころより民衆の間に行われた芸能で、幸若もこれの一種であった。幸若の本拠は越前の田中郷にあったが、のちの朝日町西田中であろう。幸若舞曲は桃井直詮がはじめたもので、彼の幼名幸若丸よりこのようによばれたといわれる。西田中に近い田中の進士正家文書(『資料編』五)に、田中郷惣社天王社(八坂神社)の嘉慶元年(一三八七)の「供奉日記」の写があり、これに「十六日の白昼より舞三番、是は幸若役」とある。直詮は応永十年(一四〇三)の生まれといわれるが、それ以前に、田中郷の地に舞曲の幸若が存立したようである。



目次へ  前ページへ  次ページへ