戦時下の配給の様子がわかる貴重な「配給証明書綴」
目次
1. はじめに

2025年で戦後80年となりました。1世紀近くの歳月が経ち、戦争の記憶が失われていくように感じています。戦時中、そして食糧難が続く戦後には、主食のコメをはじめとした主な物資は配給制になっていました。配給とは、国が物資を買い上げ、国民は町内会などの組織を通じて配給通帳あるいは配給切符を支給され、決まった量までを購入できる制度でした(配給制度については、当館の展示「米価高値につき—江戸時代から現代までの米価の変遷をたどる—」に説明がありますので、そちらもご覧ください)。
福井県文書館が所蔵する旧南日野村役場文書の資料群には、貴重な戦時中の役場文書が何点か残されています。その中の一つが、「配給証明書綴」という資料です(図1)。その資料から、当時の配給の様子を知ることができます(個人名・住所等の部分は加工しています)。
2. 居所を管理して配給を管理していた
この綴には、転出前の区長が発行した、転入先区長あての「証明書」が多数綴じられています(図2)。大意としては、「当区において○月○日まで配給手続きを相違なく完了したことを証明する」というものです。南日野村に転入してきた住民は、この証明書を提出して、配給を受けられるようになったようです。町内会に加入しなかった場合、物資をまともに確保できない制度でした。ちなみに、映画「火垂るの墓」において、清太が食料の確保に苦しんだのは、町内会に入れなかったことにもよります。
海軍兵学校から半月ほど一時帰郷する際の証明書も綴じこまれています。これを南日野村に提出することでその期間の配給を村から受けることができたのでしょう(図3)。
単なる転入ではなく都市圏から南日野村への「疎開地方転出証明書」もあります。数えで8歳の子が大阪市から南日野村に転入したときの記録が綴じこまれています(図4)。
3. 特別な配給
コメの配給は年齢で区分したグラム単位で決められていました。例えば、戦時下(1941年)の11~60歳では、330 g/日でした。それに加えて、仕事をしている場合は45 g/日、さらに重労働に携わっている場合は180 g/日の「労務加配」を受けられました。この資料は、会社が、該当する従業員が重労働に従事していることを証明する書類です(図5)。
- 牛乳・ミルク・砂糖……母乳が出ない(あるいは出が悪い)場合に、牛乳・ミルク・砂糖の配給が必要である旨の証明書が医師から出されています(図6)。
- 慶事に伴う特別配給……祝い事があると、式に使う物資の特別な配給があったようです。婚約成立時には、特別衣料切符がもらえ、婚礼時には酒・砂糖の特別配給を申請していたようです(図7、8)。
4. 配給通帳・切符を紛失したら?
いくら注意を払っても、大事なものを紛失してしまうことはあります。配給通帳も例外ではありません。でも、そんな時でも、再発行が可能だったようです。この証明書綴には、砂糖・塩・醤油などの配給通帳や配給切符の再発行願が綴じこまれています。砂糖の配給切符の申請書には理由は何一つ書かれていません(図9)(これで申請が通ったのか?)。「家庭用塩通帳再発行申請書」を見ると、さまざまな紛失理由が書かれていますので、見てみましょう。
- 「区長と家中探したが見つからなかった」(図10)・・・何とか見つけようと頑張って探した様子が伝わってきます。
- 「紙屑と共に消失」(図11)、「大掃除で消失」(図12)・・・今でもやってしまいそうな紛失です。
- 「ポケットに入れて置いたまま不明」(図13)・・・これも今でもよくやってしまうなくし方です。
配給以外に塩を入手する手立ては海水を汲むか、ヤミ市で入手するしかなくなってしまうので、切実だったのでしょうが、紛失理由には親しみを覚えてしまいます。
おわりに
最後に、この時代の文書は、戦時下の物資不足を反映して、質が悪く保存に向かない紙が使われています。逼迫した状況が再び訪れないことを願って、資料の紹介を終わります。