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 第五章 転換期の福井県
   第二節 県民生活の変容
    四 教育機会の拡大
      高等教育への進学
 大学(短期大学を含む)への進学率(現役)は、高校進学率ほどに単調ではないが、一九五〇年代なかばの一七・一%からゆるやかに上昇し、一九六五年度(昭和四〇)には男子で三割をこえた。その後停滞したが、七一年度から上昇に転じ、七五年度には三七・一%を示した。その後は八〇年代なかばまで漸減し、八〇年代後半からの女子の顕著な伸びに押されて上昇し、九二年度(平成四)には四〇%をこえている(資17 第598表、『県統計書』)。なお大学進学率の場合、県内の進学率は五〇年代後半から一貫して全国を上回っていた。
 こうした高等教育への進学要求を背景に六〇年代に入ると、県内にも私立の高等教育機関があいついで設置されはじめた(第四章第二節四)。また高等教育機関を誘致しようとする運動も展開され、六四年七月には、北栄造知事を会長とし、中西敏憲武生市長、福島文右衛門鯖江市長を副会長とした「国立高等専門学校福井県設置促進同盟会」が結成された。武生・鯖江両市から用地提供をうけて六五年四月には、武生市の仮校舎で福井工業高等専門学校が開校した(『福井県教育百年史』2)。
 同時期には農学系の短期大学の設立を求める動きもみられたが実現せず、七〇年代に入ると、中川平太夫知事から医学部設置とともに、県立短期大学の設立の意向が示された。これは、高等教育への県民の要求が増大する一方で、八割が県外大学へ進学するため、「県内における高等教育機関の絶対的不足」が問題とされたためであった(「県立福井短期大学設置構想要旨」『福井県立短期大学のあゆみ』)。とりわけ医学部に関連しては、人口一〇万人あたりの医師数が全国三五位(七〇年)と低く、増大する医療需要に対する医師不足、県内医師の高齢化が指摘されていた(『福井医科大学十周年記念誌』)。
 当初、福井大学に医学部を設置する方針で、七二年度の国への重要要望事項として福井大学医学部設置が加えられ、同年八月「福井大学医学部設置期成同盟会」の設立総会が開催された。七三年四月には、国の単科大学設置方針にあわせて国立医科大学福井県誘致推進本部を設けた。七四年度の文部省予算に調査費が盛りこまれ、四年後の七八年度予算で創設費が認められ、八〇年四月福井医科大学(定員一〇〇名)が吉田郡松岡町に開学した。
写真97 福井大学医学部設置期成同盟会の設立総会

写真97 福井大学医学部設置期成同盟会の設立総会

 一方県立短期大学は、七一年一一月に設置構想が県議会で承認され、七五年設置認可をうけて、同年四月、福井市大畑町に設立された。農林・経営・看護の三学科が設置され、母体となった県農業短期大学校(六六年設置)は吸収・廃止された。さらにこの県立短期大学は、九二年の福井県立大学(経済学部、生物資源学部、看護短期大学部併設)の開学によって学生募集を停止し、九四年閉学した。
 なお八六年度には敦賀市が主導して、私立の敦賀女子短期大学が開校している。



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