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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    四 労働運動の動向
      県労評の分裂と全労県支部の結成
 一九五〇年(昭和二五)、「自由にして民主的な労働組合」として出発した総評であったが、講和問題を契機に全面講和・再軍備反対などを掲げて政府や占領軍の思わくをこえて左傾化し、破壊活動防止法制定などの動きに対しては大規模な反対闘争を展開した。しかし、全繊同盟・海員組合などの右派系組合は、総評の運動が政治闘争へ傾斜しているとして批判を強め、あいついで総評を脱退、五四年四月、総同盟とともに全日本労働組合会議(全労会議)を結成するにいたった。
 中央のこの動きは県労評にもおよんだ。五一年に結成された県労評は、総評には属さない福井県独自の労働組合連絡協議機関として位置づけられていた。しかし、県労評を構成する国鉄労組・県教職員組合・電産・県庁職組などの主要労組はいずれも、中央に本部をもち総評に参加している全国組織に加盟していたため、実際には県労評は総評の県支部的存在になっていた。これに対して批判を強めたのが全繊同盟福井県支部である。
 全繊県支部は、五三年末本部からの指令にもとづいて「県労評運営に関する申し入れ」を行った。その内容は、県労評に福井県下の地方組織として運動することを求めたものであった。これに対して県労評は、県労評結成以来の基本方針を堅持し、当面総評、全労などの全国組織に加盟しない旨を回答した。しかし、全繊県支部の県労評に対する不信感は払拭されず、五四年の県労評第五回定期大会、翌年の第六回大会で運動方針をめぐって全繊県支部が出した修正案のほとんどが否決されるにおよんで、全繊県支部は県労評脱退の動きを強めることになった。そして五六年九月、ついに全繊県支部は県労評脱退を決議し、県労評は分裂したのである(『福井県労働運動史』1)。
 全繊県支部にとって県労評の運動は、政治闘争に偏重し傘下繊維労組の実情を無視したものであると映っていた。五〇年代前半は前述のように産業合理化が推進されるなかで各企業が苦しい経営を強いられていた時期であり、その影響はとりわけ繊維産業に強かった。このため繊維関係労組には、強力な闘争を展開すれば労資共倒れの恐れがあることから、組合活動の主体を企業そのものを不況から守ることにおかなければならず、その一方で、これに並行して賃上げも勝ち取っていかなければならないという二元的活動の苦悩があった。こうした繊維関係労組の特殊な事情が、官公労主体の県労評の運動と相容れないところとなったのである。
 その後しばらく全繊県支部は単独で活動したが、福井県乗合自動車従業員組合(県バス第二労組)や福貨通運労組などの全労系の組合が誕生すると全労の福井県支部の結成に動き、五七年一二月、全繊県支部(二三単組)・県バス従組・福井木工労組・北新労組・福井通運労組・福貨通運労組・関西電労小浜分会の二九労組、人員約一万二〇〇〇名を擁する福井県地方労働組合会議(全労県支部)が結成された。その運動方針は、「単組の自主性を失うような画一的闘争を行わず、相互援助の任務を主とした結合体として、賃金闘争や労基法を守らせる闘い、中小企業労働者の組織化、生産性向上運動などを行う」とされた(『福井新聞』57・12・2)。



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