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 第四章 高度産業社会への胎動
   第三節 苦悩する諸産業
    三 戦後繊維産業政策の展開
      設備制限令の発動
 右の共同購入案の不調は、県下の業界利益の実現を託されていた調整組合に対する不満を表面化させた。一九五四年(昭和二九)四月には、高志、坂井、勝山、今立の各地区組合に調整組合脱退の動きが現われた。これに対して前田らは、(1)ある程度の品種別割当を考慮する、(2)生産実績を重視し、割当のさいに超過生産分も考慮する、(3)調整賦課金の額、徴収方法を考慮する、といった案を提示するとともに、安定法改正運動に力を注いだ。通産省は四月にはタオル業界、五月にはマッチ業界に対して数量制限命令と設備制限命令を発動していたが、全国各地に業者が分散しており、かつ七割程度の調整組合加入率(タオル、マッチは九割)となっている輸出向け絹人絹織物業・綿スフ織物業で設備制限を行うためには、安定法二九条の改正が必要であった。すなわち、従来の政府の直接統制の形式による命令発動(一項命令)に加えて、二項命令として調整組合の自主的な調整規定に従うべきことをアウトサイダーに対して通産省令で命令するという間接的な統制方式を設定し、命令の発動を容易にする改正である。この安定法改正案は五月に国会を通過し、六月一日公布施行となった(『福井繊維情報』54・4・4、6〜8、10、18、20、23、27、5・23、25、26)。
 二九条二項による設備制限令は一一月二日、通産省令第六一号「輸出向絹人絹織物業生産設備制限規則」・同第六二号「未登録輸出向絹人絹織機設置制限規則」として発動され、五五年四〜六月期調整より数量制限方式から生産実績割当方式に調整方法が変更された。このように発動までなお五か月を要したのは、輸出向け絹人絹織物業と綿スフ織物業との織機登録をめぐる問題があったからである。福井県では人絹から綿スフへの品種転換を奨励しており、五三年八月、県下の業界の期待を担って創立された福井紡績が「福姫」の商標でスフ糸の生産を開始したこともあって、織機の制限が綿スフ織物への転換の支障になることを恐れた。福井県綿スフ織物調整組合が急きょ五四年一〇月一二日に設立(組合員一二五名、織機二三八七台、理事長前田栄雄)されたのもそのためであった。他方、綿スフ織物業界にとってはこうした人絹織物からの転換は脅威であり、結局両調整組合連合会間の折衝により、(1)織機の登録は絹人絹、綿スフのいずれか一方のみとする、(2)登録変更は、三か月以上継続して製織実績のある場合のみ認める、との調整が成立した。また、登録した織物以外の織物を一定期間以上製織した場合にはその織機の登録が取り消される規定となっていたが、合繊織物・アセテート織物については品種転換促進の観点から制限の緩和がはかられ、継続して一年以上製織した場合のみ登録取消とされた(『昭和三〇年福井県繊維年報』)。なお、織幅二七インチ未満の制限外絹人絹織物については一年のうち通算八か月以上、その他の織物については通算三か月以上製織した場合に登録が取り消される規定になっており、県内の輸出向け広幅絹人絹織物業者が季節的に前者に該当する小幅物に乗りかえることは比較的容易だった。このため内地向け絹人絹織物の設備制限も問題になり、五五年七月に福井県内地向絹人絹織物調整組合(理事長斉藤勇)が結成され、一〇月二〇日に内地向けでも設備制限令が発動された(『福井繊維情報』54・11・6、『福井新聞』55・7・29、10・20)。



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