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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    三 戦後の文化運動と社会教育
      婦人会の結成
 一九四八年(昭和二三)四月までに設立された婦人会一二二団体のうち、四六年夏までに組織されたのは、ほぼ半数であり、青年団に比べるとゆるやかではあったが、四八年四月には六万人が組織された。県の連合組織の結成は早く(全国では四六年中に八県)、各地域の組織の大半が再生する以前の四六年一二月には福井県連合婦人会が結成されていた(旧内外海村役場文書、『戦後日本の教育改革』10)。
 婦人会の再生は、青年団と同様に戦後間もない四五年一一月に、「婦人教養施設ノ育成教化」が通牒され、「郷土的施設」としてその設置が奨励されたものであった(旧東郷村役場文書)。県連合婦人会結成のさいに示された「しおり」では、新生日本建設の熱意昂揚や婦人として必要な公民的知識の要請といった目的がうたわれ、投票による役員の選出や幹部の独裁的な運営は避けることとされた(『福井新聞』46・11・26)。だがその県の組織自体は、単位婦人会の設立に先行しており、青年団のように世代的な若返りがはかられなかっただけに、その指導者や組織運営は戦前との連続性が強かったと考えられる。ただ、女性の政治的社会的活動の領域は、婦人参政権の獲得をはじめとする民主化政策によって確実に広がっており、具体的な活動の場でその力量が問われることになった。
 設立当初の県連合婦人会に対しては、福井軍政部は、幹部に大日本婦人会時代のメンバーが多いこと、地域網羅的な組織であること、活動が奉仕活動に偏重していることなどをあげ、県連合組織の解散を迫ったという(『福井県連合婦人会三十年誌』)。民間情報教育局は、教育の機会均等の原則から女性のみを対象とした社会教育施策を行うことを認めなかったが、後述するように四八年以降になると他府県と同様に福井軍政部では、実態として存在する婦人団体の民主化のための施策を、むしろ積極的に行っていた。



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