戦時体制下に抑圧されていた文化や娯楽活動は、敗戦後、困難な生活条件のなかであったが、県内各地でさまざまな人びとによって開始され、数多くの文化サークルがつくられた。これらのなかには、戦前からの社会教育団体である青年団や婦人会も含まれ、そうした再生された団体も含めた地域の文化活動の動向が、戦後の地域での社会教育行政の実施に深くかかわっていた。
各地域の自生的な文化サークルを全県的につなぐもっとも早い動きとして、「北陸生活文化協会」の結成があげられるだろう。福井新聞社内に事務所をおいた同協会は、一九四六年(昭和二一)一月、「北陸地方の心ある人々の一切を網羅し、随時随所に文化的事業を行ひ、日常生活の教養と趣味と科学性の高揚を図るべく、職業、年齢、男女の別を問はず広く同志を募」るとして、『福井新聞』紙上で機関誌への投稿を呼びかけた(『福井新聞』46・1・5)。同年五月には、機関誌『北陸生活』が創刊された。理事一九名のなかには、疎開中であった三好達治・多田裕計・山本和夫・伊藤柏翠ら文学者、雨田光平(彫刻家・ハープ奏者)や鈴木千久馬(洋画家)、斉藤静(福井工業専門学校講師)、藤井利一・沢村伍郎ら福井新聞関係者のほか県内各紙の代表者など、県内在住の広範な文化人が名を列ねていた。さらに文学に関心を寄せていた堂森芳夫や歌人でもある熊谷太三郎ら政治家も含まれていた(『北陸生活』1、『福井県文化史』)。
三好、多田、山本、伊藤、雨田らは、いずれも戦災をさけて福井県に疎開していた文化人であり、こうした疎開文化人の存在が同協会結成へのインパクトになっていたといえるだろう。さらに北陸生活文化協会の呼びかけの背景には、戦後間もないころからの県内各地で活動を展開していた文化サークルが存在していた。それらは、けっして著名ではないが、自身も疎開者・引揚げ者であったり、あるいは文化活動を渇望していた青年層によって担われる場合が多かった。
同四六年一月には三国では畠中哲夫らが堂森芳夫・三好達治・伊藤柏翠、小野忠弘を交えて「三国地方文化会」をつくり、蔵書を出しあって文庫を設け、文化祭「音楽と劇の会」を開いた(堂森芳夫顕彰会『政治にロマンを貫いて』)。四七年ころまでには、「鯖江文化協会」(鯖江町)、「南越(若越)文化交友会」(武生町)、「文化教室」(武生町)、「敦賀新生文化協会」(敦賀市)、「若狭文化会」(小浜町)など、「文化」を冠するサークルが県内各地に生まれていた(『福井県文化史』)。また俳句、短歌、書道などの文芸サークルも数多くつくられた。 |