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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    一 六・三・三・四制教育の実施
      福井大学の発足
 福井師範学校は、一九四五年(昭和二〇)七月の福井空襲で、福井市豊島中町の本部・男子部が灰燼に帰し敗戦をむかえた。男子部は今立郡鯖江町の女子部の校舎で同年一二月から授業を再開し、四七年二月に同郡神明町(鯖江市)の旧鯖江連隊兵舎に移転した。福井青年師範学校は、「学校教育法施行規則」(四八年三月公布)で青年学校の廃止が決したため、その存続が危ぶまれた。さらに福井地震で大きな被害をうけ、同年九月から福井師範学校で授業を開始した。以後、福井師範と提携し、四九年度の新制大学創設にさいし教育大学昇格運動を展開した。両校は、四九年の福井大学開学にともない、それぞれ福井大学福井師範学校、同福井青年師範学校となり、五一年三月に最後の卒業生を送り出し廃止となった(『福井師範学校史』)。
 福井工業専門学校は福井空襲で福井市牧ノ島の校舎・設備に甚大な被害をうけたため、一時鯖江あるいは武生への移転が検討されたが、おりから舞鶴への移転問題が持ち上がり、各方面へ大きな波紋を投げかけた(『福井新聞』45・11・21)。学生をはじめ、市議会も移転反対を表明し「工専存置期成同盟会」を結成(『福井新聞』45・11・23)、県下の織物業界も存置運動に乗りだした結果、文部省も存置を決定した。新制大学設立に対しては工専でも大学昇格運動を展開し、「福井工業大学設置期成会」を結成した(資12下 一三四)。新制大学の開始にあたり、この機に大学昇格を果たさなければ県内唯一の高等教育機関を失うことから、県・市も側面的援助を行い、四八年四月には知事を会長に「福井県大学設置委員会」を設立し、挙県的運動へと発展させた(『福井新聞』47・3・14、資12下 一三五)。しかし、その後、地方官立工専や師範学校の単独昇格が認められないことが判明し、工専・師範学校・青年師範学校は合同して福井大学の実現にむけ運動を続けた。この年、福井地震で師範学校・青年師範学校・工業専門学校はいずれも倒壊の被害をうけ、さらに設置にかかわる地元負担金捻出に苦しみながら、ようやく四九年五月に他の国立六八大学とともに福井大学は開学にこぎつけた(『福井新聞』49・6・2、『福井大学の歩み』)。



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