旧制中等学校は戦局の悪化のなかで一九四五年(昭和二〇)三月に四年生の繰上げ卒業を行った。敗戦を経て翌年度もこれを継承したが、希望者には五年進級も認め、四六年度からは五年制に復帰した。四七年度の新制中学校の発足によって生徒募集を停止、翌年度の新制高校の誕生によって中等学校を廃止し、在校生については移行措置がとられた。
新制高校設置問題に関し、新学制実施協議会は既設の中等学校を無理なく転換させる文部省の方針に沿い、さらには高校への昇格を望む中等学校関係者や地域の要望をうけ、四八年二月に県立二校、市立・私立はいちおう設置者の意志を尊重するという結論を出した(資12下 一二四、『勝山高校三十年史』)。ところが理想主義的教育改革を志向する第一軍団軍政部教育官マクレランが来県し、その指示で結論は白紙に戻された(阿部彰「教育長 天野利武論」『大阪大学人間科学部紀要』8)。新制中学校問題の優先、新制高校は総合制・男女共学とし統廃合による余剰校舎・施設・教師の新制中学校への提供、男女共学・総合制の実施、学校間格差の除去、学区制・教員の人事交流などその趣旨をうけ、福井軍政部も協議会への強い指導を実施した。委員会は、あらためて県立一三校案をもって軍政部と折衝にあたり、この結果、県立一二校(うち勝山はあらためて調査委員を派遣し決定)を決定し、市立(福商・市立高女)、私立(北陸・仁愛・勝山精華)は各自の決定に待つとした(加藤佐助「福井県の新制高等学校創設から現在まで」)。
四八年四月をもって県立高校一二校が発足した。これとあわせ、県は同月、勝山精華高校、仁愛学園女子高校、北陸高校を認可した(資12下 一二七〜一三〇)。市立については福井市立商業学校と福井市立高等女学校が併合し、市立福井高校として発足した(表92)。 |