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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    四 労使関係の再編と労働運動
      労働運動の高揚と転換
 二・一スト中止後労働争議は一時停滞したが、秋になると官公庁労組は最低賃金制確立(一八〇〇円ベースの打破)の闘争を開始した。この闘争では、二・一ストの反省から、全国的に統一行動をとるのではなく、地域ごとの事情を考慮して、地域支部労組が地方当局と交渉をするかたちがとられた。また、民間においても賃上げを主とする闘争が活発化した。
 福井県でも一九四七年(昭和二二)秋から翌年夏にかけて争議が頻発した(図39)。県労政課の調べによると・四七年二月から翌年五月までにおきた争議件数三四件のうち、物価騰貴による賃上げ・一時金(生活突破・越冬資金)を要求したものが二四件でインフレの昂進にともなう生活苦の打開を求めた労働者の待遇改善要求が中心であることがわかる(『福井新聞』48・6・8)。
 この時期の代表的争議としては、全逓福井地区協議会による、地域給最低二〇〇〇円(現行平均一二〇〇円)、生活補給金(本人二〇〇〇円、家族一〇〇〇円)、寒冷地手当など五項目にわたる給与引上げ要求をめぐる争議があげられる。四七年一一月、同地区協議会は金沢逓信局長に右の要求書を提出、局長は本省に対して善処を求めることを約束したものの、組合側は回答が具体性を欠き責任回避をしているとして、争議が長期化した。翌年一月、組合側の申請により地労委の調停が開始され、二次にわたる調停の結果、五月、局長の最高責任者としての責任の自覚を求めるとともに、要求実現のための特別委員会を両者の間で設置することで終結した(『福井県地方労働委員会十年誌』)。
 四八年三月以降、日本亜鉛鉱業中竜鉱業所をはじめ民間企業でも賃上げ要求をめぐる争議が地労委に係属となるが、官公庁労組もまた最低賃金制確立闘争を強め、三月には新賃金ベース二九二〇円に対する反対闘争をおこし、さらに六月からは五二〇〇円ベース賃金を要求し、これに関連して六月には国鉄労働組合敦賀支部より、給与問題、不当弾圧問題などをめぐって地労委に調停申請がなされた。ところが、七月二二日、官公労働運動の高揚を警戒し、アメリカ的慣習にしたがい労働立法の対象から官公労を除外することを求める民政局の主張を支持した、いわゆる「マッカーサー書簡」が出された。これにもとづき七月三一日に公布・施行された「政令二〇一号」により、公務員の争議権と団体交渉権が否認された。この政令には係属中の官公労関連の争議調整を中止する旨も指示されており、右の敦賀支部の争議の調停も打切りとなった。
 これ以後、産別会議を中心として政令二〇一号に対する反対闘争が展開されるものの、参謀第二部長ウィロビーの支持をうけた吉田茂民自党内閣の登場、日本経営者連盟の成立とともに日本の政治的環境は反共・反労働組合主義の方向へ大きく揺れ動き、政令二〇一号の趣旨の延長線上で各労働法規の改正が進められた。四八年一二月には、国家公務員法改正により国家公務員の争議権・団交権を否定して労働条件の決定を人事院規則の下におくとともに、国鉄・専売などの政府事業を公共企業体として職員を公務員法の適用から除外し、団交権は認めるが争議行為を禁止する(代償として強制仲裁制度を設置)「公共企業体労働関係法」が成立した。翌四九年六月の労働組合法・労働関係調整法の改正では、労働組合の自主性・民主性要件を明確化し労働委員会の権限を強化することにより、経営権を脅かすことのない「公正」な労使関係の樹立をめざすとともに、公益事業における争議行為の規制を条文化した(竹前栄治『戦後労働改革』)。



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