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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
     三 繊維産業の再建
      絹から人絹へ
 さて、一九四九年(昭和二四)四月二五日より実施された単一公定為替平価一ドル=三六〇円は、品目別にレートが設定されたそれまでの為替統制下における絹織物、人絹織物の円ドル換算レートよりも円安に設定されたため、国内の総需要抑制による物価下落とあいまって輸出の増大が期待された。しかし経済環境の変化はこのような期待を裏切るものとなり、福井県の繊維産業も不況に追い込まれていった。
 前年八月より実施されたいわゆる「BSコントラクト方式」による新貿易手続(繊維製品は九月より実施)は、日本の輸出業者と外国のバイヤーとの直接契約を認め(フロア・プライスと呼ばれる最低ドル建価格を設定し、この価格以上での輸出は輸出業者の差益金となる)、輸出の増進をはかるものであった。しかし一一月まで実施された貿易公団による委託製織とは異なり原糸購入を自己資金でまかなわざるをえず、震災復旧資金の必要にさらされたこと、また公団委託製織の織賃支払がとどこおっていたこともあり県下の業者は深刻な運転資金不足に陥っていた。さらに、業者はバイヤーからの信用状の到着を待って原材料の割当申請・購入を行うので、信用状の到着の遅れにより納品期限を守ることができず違約金が課徴されるケースも頻発していた。
 こうした制約のもとで、輸出向け織物業者は、四九年二月のアメリカの農産物価格の暴落を引き金に世界的な戦後不況が発生すると、五月ころからアメリカを中心として羽二重輸出契約のキャンセルが続出し、膨大な滞貨を抱えることになり、さらに深刻な金融逼迫に直面した。これに対して業界ではキャンセル品約一二億円の政府買上げを求める陳情運動を展開した。その結果、政府は七月、四月二七日までに契約認証があり、かつ九月末まで信用状の開設されない輸出向け絹織物についての業者買戻し条件つきの買上げを約束したが、夏以降クリスマス用の季節需要により注文が回復し、当面このキャンセル問題は解消されるかたちとなった(『福井繊維情報』49・7・8、12)。
 一方、日銀では六月ころからデフレ対策として買オペ、高率適用制度の緩和、生糸・人絹糸のストック融資、貸出金利引下げ指導等を行ったが、県下繊維産業では表82がその一端を示すように手形取引が急激に膨張するとともに、一〇月からは不渡手形が増加しはじめた。これに対して、県では一〇〇〇万円の県費を商工中央金庫に預託して短期資金貸付を促進する「県費預託制度」を実施した。政府も機業向け国庫融資を約束し、また日銀も織物担保金融の再開を検討したが、いずれもその実施は翌五〇年四月以降のこととなった。こうしたなかで貿易公団買上げ織物の市中放出問題も発生し、織物価格の低落に苦しむ県下各地区組合は、五〇年四月一一日から五日間の予定で同盟休業に突入する。しかしながら、この盟休には独禁法違反の疑いが強く前日に公正取引委員会の係官が来県したこともあり、足並みがそろわずほとんど効果はなかった(『福井新聞』50・4・16)。

表82 ドッジ・デフレ期の手形取引 

表82 ドッジ・デフレ期の手形取引 
 このように県下の織物業界にとってドッジ・ラインの影響は深刻だったが、にもかかわらず県内の織物生産高は増加傾向を示した。第一に、農村の零細家内工業における生産が急激に伸びた。一戸あたり七万円といわれた供米代金収入をもとに一台一万円前後の中古半木製織機を数台購入し、月産人絹織物三〇疋、一万円から一万五〇〇〇円の収入をあげる農村機屋が多数出現したのである(『福井新聞』50・2・1)。したがっていわゆる無検査物の出回りも急激に増加し、人平生産の半数を無検査物が占めるほどであった(『福井新聞』50・2・21)。第二に、この増加の中心は人絹織物であった。その背景として、(1)輸出向け絹織物がキャンセル問題で打撃をうけたこと、(2)人絹糸の増産が順調であったため生糸に比べて廉価で購入可能となり、中小機業にとって資金繰りが容易であったこと、(3)人絹糸メーカー、特約店の織物産地への売込み競争が激化したこと、(4)四九年九月のポンド切下げによりポンド地域を主要輸出先とする人絹織物の輸出は打撃をうけたものの人平を中心とした内需が比較的安定していたこと、などがあげられる。この結果、福井県の織物生産はふたたび人絹中心の体制に復帰することになったのである。



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