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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    一 農地改革
      農地買収
 農地委員の選挙が完了したことにより、第二次農地改革はいよいよ具体的な実施の段階に入った。農地の第一回国家買収の日は市町村農地委員再選挙からわずか一か月あまり後の一九四七年(昭和二二)三月三一日と決められた。各市町村農地委員会はこの短い期間に、農地の一筆調査・農地台帳の作成・買収農地の選定・世帯票の整備・財産税支払いのために物納された農地一覧表の作成などきわめて多くの作業を要請された。多くの農地委員会はまだスタートの態勢すら整っていなかったから、かなりあわただしい状況のなかで第一回の農地買収の日を迎えざるをえなかった。
 第一回の農地買収で主として買収の対象となったのは、(1)不在地主の所有する土地全部、大地主の土地、買収に対し所有者の異存のない土地であり、福井県全体では二九二七町歩余の農地が買収された。翌月の四月一四日と一九日には県農地委員会の専門委員会が開かれ、福井県の在村地主の最大土地保有面積と最大小作地保有面積が、それぞれ二町七反と九反に決められた(『福井県の農地改革』)。
 二回目の農地買収は七月二日に実施されたが、対象は第一回の時と同じく比較的問題の少ない農地であった。しかし、第三回目からは主として中小地主の土地が買収の対象となったため、買収計画の樹立は困難をきわめた。この困難に輪をかけたのが、第一、二回目の農地買収があわただしいなかで行われたため多くの過誤が発見されたことや、買収と並行して一筆調査をやらなければならなかったことであった。インフレの進行で経費が不足がちになったことも市町村農地委員会の活動をにぶらせた。農地改革に対する批判も各地で高まってきた。このような状況を打破するために、八月二七日付で農林大臣から各都道府県へ、農地買収のさらなる徹底を要請する電報がうたれた。福井県ではすでに第三回の買収計画樹立は終わっていたが、農林省の意向をくんで「既存の買収計画との累計は買収予定面積の八割を超えることを目標とする」第三回追加買収計画がたてられた(『福井県の農地改革』)。
 農地買収は、このあと年数回のペースで行われることとなった。買収は四七年中の四回で全開放予定面積一万四二六二町歩(第三次報告分)の七割以上を達成(七三・九%)し、四八年末には九三・三%、四九年末には九六・一%、五〇年七月には九八・二%となった(表73)。これは全体的に全国平均をやや上回る数値であり、とくに初期において好調であった。最初の一年間で農地の買収を全部完了するという県の計画は実現できなかったし、自作農創設特別措置法第五条が規定する、いわゆる「国が買収しない土地」に関しては、松平試農場、福井競馬場などをめぐっていくつかの問題が生じたものの、福井県においては農地買収は総じて順調に進んだのである。また、買収は農地だけではなく、宅地・建物・農業用施設や牧野、未墾地などにも及んだが、福井県の場合はそれほど大きな比重を占めなかった。

表73 農地買収面積

表73 農地買収面積
 農地の対価は報奨金も含めて現金および農地証券のかたちで支払われた。支払いは、日本勧業銀行(北海道では北海道拓殖銀行)による委託支払の方式で行われた。当初は買収と並行して行われる予定になっていたが、買収・売渡そのものに大きな負担がかかったこと、資金の捻出に時間がかかったことなどにより遅れ、国が第一回買収対価の委任状提出分の現金払分一億三三九四万六六九円を日本勧業銀行に支払ったのは四八年の二月二八日のことであった(『農地改革顛末概要』)。福井県においては同年五月に第一回分七二五万三〇〇〇円余が支払われた。農地証券の支払いはさらに遅れ、勧業銀行に交付されたのが四八年六月二二日、福井県で市町村農地委員会にはじめて支払われたのは同年の一二月中旬から下旬にかけてのことであった。
 なお、農地証券の買上げに関しては、福井県では福井震災の被災者には農地証券の特別償還の措置がとられた(総額一五二八万七〇〇〇円)が、その他の者についても、売渡代金の一時払分の徴収が好調なこともあり、五〇年四月一日以降全額が償還されることとなった(『福井県の農地改革』)。



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