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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    一 新制度の発足と指導者層の交代
      公職追放
 占領の総括を行った総司令部の『日本の政治的再編成(Political Reorientation of Japan)』は、政府の憲法草案のみならず、各政党や民間団体などの憲法改正案のなかに地方自治に対する提案がまったく欠如していることをとらえて、内務省による中央統制が当然のことのように受け入れられる土壤がある点を指摘している。総司令部は憲法に地方自治を盛り込み、分権と住民の自治を進めることで旧来の中央集権的行政機構を解体するとともに、いわゆる公職追放によりそうした機構を支えてきた人物の排除をも進めたのである。
 一九四五年(昭和二〇)一〇月四日の自由の指令(SCAP Instruction,No.93:SCAPIN93)や四六年一月四日の公職追放令(SCAPIN550)が、戦前の中央統制を支えてきた人材を戦後の指導者層より排除していくことをめざすものであった。上述の総司令部の指令にもとづき政府は四六年二月二四日、「政党、協会其の他の団体の結成の禁止に関する件」(ポツダム勅令第一〇一号)を出して軍国主義的、極端な国家主義的団体を解散し将来の結成を禁止し、同月二八日、「就職禁止、退官、退職等に関する件」(ポツダム勅令第一〇九号)を出し、そうした望ましくない者の公職からの締出しをはかった。これにもとづき、中央に公職適否資格審査委員会をつくって、公職追放令に該当するものを排除したのである。
写真51 第2次公職追放の波紋

写真51 第2次公職追放の波紋

 四六年四月には戦後最初の衆議院議員選挙、四七年四月には最初の知事・市町村長・地方議員の選挙、初の参議院議員選挙、さらには二回目の衆議院議員選挙が行われた。戦後の新しい体制の運営をまかされる人びとを選ぶこれらの各級選挙に先立って、候補者の資格審査が進められた。四六年の衆議院議員選挙の前に急いで行われた資格審査によるものを第一次公職追放、そののち、適用範囲を地方レベルの公職者や公職に準ずる経済界や言論界の有力者におよぼしていったものを第二次公職追放と呼んでいる。
 公職適否資格審査委員会は四六年一一月の閣議決定により地方にもつくられることとなり、四七年四月の一連の地方レベルの選挙を前にして、第二次公職追放が推進されることとなった。戦時中翼賛会市町村支部長、翼賛壮年団市町村団長、在郷軍人会役員(分会長以上)ならびに翼賛会地方協力会議長以上の役員などは公職追放令に該当し、知事、市町村長、県議会・市町村議会議員に立候補できないこととなった。該当者は市町村助役や町内会・部落会の役員からも退かねばならず、概数で五〇〇〇人におよぶとされていた(資12下 二四)。各地方団体の首長や議員は四二年の翼賛選挙以来選挙が停止されていたので、長い任期をつとめている者が多かった。とくに市町村長はほとんどが翼賛会の支部役員になっているので、自動的に入れ替わることになったのである。
 四月の地方選挙に立候補を企図する者は資格審査をうけ、追放令に該当しないことの確認を得なければならなかったわけだが、覚書該当の明確な者は自らを「遠慮組」と呼んでもとより立候補せず、ほとんどが身を引いたので審査の結果、覚書該当者であるとの通告をうけた者は四名にすぎなかった(『福井新聞』47・3・22)。
 公職追放は一度きりではなく一次、二次と審査が行われたので、最初の衆議院議員選挙で当選した薩摩雄次が立候補の段階で審査をうけ出馬に問題なしとされたにもかかわらず、当選後辞退している(彼は第二次追放に該当した)。こうした例にみられるように、実際に審査が行われた結果として公職より追放されるということよりも、前歴を問われ審査されるということにより体面を汚されることを嫌った人びとの「遠慮」という行動を導いたという側面もある。
 福井の大物公人として公職追放の話題となった人物としては、最初の公選知事、小幡治和もそうであった。小幡の当選後、四七年七月に武徳会関係者の追放が閣議決定され、戦前、栃木県や奈良県で警察部長をつとめた彼は当然、武徳会の支部役員となっており追放に該当するのでは、と考えられたのである。このうわさで県政界が色めき立ったが、結局は追放を免れた。県議会が全員協議会で追放除外の陳情を決議するなど各界よりの陳情がなされている(資12下 二六)。



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