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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第三節 空襲と敗戦
    二 敦賀・福井空襲と敗戦
      八月一五日
 敦賀・福井空襲は、戦争が殺戮であることを直接体験させ、また県民の六人に一人が住む家を失い、県民に大きな衝撃をあたえた。福井空襲後には、二三日には武生・鯖江へ来襲するが、もし来なければ二五日であるなどとの流言が次々と言い交わされるようになり、憲兵隊長は「デマ流言を発した者はもちろん、伝えた者も共同責任として重刑に処するが、場合によつては軍法会議に廻すこともある」という警告を発していた。また、県は空襲被災後、工場側の呼びかけにもかかわらず工場復帰をしていない相当数の工員に対して、解雇のうえ白紙徴用により強制就労の措置を行うとの公告を発していた(『福井新聞』45・7・24、8・6)。こうして空襲は、敦賀・福井の経済を破壊しただけでなく、県民の戦意にも決定的な打撃をあたえることになる(『近代日本の軌跡』5)。
 八月六日、広島に原子爆弾が投下され、八日にはソ連軍が対日宣戦を布告してソ満国境を南下し、翌九日には長崎にふたたび原子爆弾が投下された。天皇の支持によりポツダム宣言受諾の方針が出された一〇日の御前会議をうけて、下村情報局総裁の「今や真に最悪の事態」に立ちいたった、国民は「国体護持」のためあらゆる困難を克服していくことを期待する、という談話が翌一一日の新聞に掲載された。これを和平の示唆とうけとめた新聞もあったが、空襲で金沢の北陸毎日新聞社から代行発行されていた『福井新聞』は、下村談話を一億玉砕の覚悟とうけとめ、一四日の「降伏によって護持されるが如き国体は断じて日本のものに非らず」まで一貫して徹底抗戦を主張していた。
 こうしたなかで八月一五日、日本国民がラジオをとおしてはじめて天皇の声を聴くことになる、ポツダム宣言受諾の玉音放送が行われた。この日の今立郡粟田部町役場の当直日誌は「正午大東亜戦争終結、詔書渙発、畏モ陛下直接詔書御放送、町民一同血涙ヲ呑ム、只ダ残念」と記している。満州事変から数えて一五年目、日中全面戦争から数えて九年目、対米英開戦後三年九か月にして、ようやく無謀にして悲惨な戦争は終結した。しかし、この国内外に多大の災禍をもたらした戦争の残した負の遺産は、いまもなお大きな課題として残されている。



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