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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    四 戦時統制経済下の工業・金融
      預金金利協定
 制裁をともなう預金金利協定が福井県の銀行間で成立したのは一九二五年(大正一四)五月である。銀行を甲、乙、丙の三種に分け、公表率(定期預金で年六分五厘)と勉強率(七分一厘から七分五厘)が設けられて各地区ごとに実施された(『福井新聞』25・5・20)。預金獲得競争による金利の高騰・資金コストの上昇を防ぐことをねらった銀行間の自主協定であった。
 三二年(昭和七)以降も福井市組合銀行を中心に預金金利協定が結ばれていったが、これは政府・日本銀行の低金利政策に照応したものであった。そして三八年五月、福井県銀行同盟会は、低利国債消化のために国がうち出した「地方金融機関の預貯金金利引下げと金利平凖化」の方針に協力することを申し合わせた。一一月に県内本支店銀行を会員とする福井県銀行懇談会が結成され、定期預金金利は最高三・五%に協定された。その後、銀行と信用組合連合会・信用組合の間にも協定が結ばれ、四二年一月から定期預金金利はすべて最高三・四%となった(福井銀行本店所蔵文書、『福井銀行八十年史』)。この利率協定のために県の課長が銀行同盟会の総会に出席して要請しており、形式上は協定であったが、実質は金利統制であった。この協定により、地方金融機関は国債消化機関化していった。



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