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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    二 県行財政の戦時体制化
      臨時地方財政補給金制度
 満州事変以後の大都市を中心とした軍需景気は、経済発展の地域的不均衡を著しく拡大し、道府県間やまた市町村間において財政力の格差を大きくした。表43、44にみられるように、農村部は昭和恐慌の打撃から立ち直れないうえに、租税負担率が高く、農村の負担軽減が声高に叫ばれていた。福井県でも、一九三三年(昭和八)一〇月に開催された第一三回町村長総会は決議の最初に「地方財政調整交付金制度ノ実現」を掲げていた。そしてこれ以後の町村長会ではつねにこの調整交付金制度の確立が大きな議題となり、決議・陳情がくり返されることになる(『福井県町村会六十年史』上)。

表43 地方税収入比較(1930、33、35年度)
表43 地方税収入比較(1930、33、35年度)


表44 道府県税課率(1935年度)
表44 道府県税課率(1935年度)

 一方、議会や政府においてもこうした地方財政力の格差が問題視された。三四年一月の第六五議会や翌三五年二月の第六七議会には、政党による議員立法の調整交付金に関する法案が提出され、両年とも衆議院では可決されていたが、貴族院がその効果を疑問視し否決した。その後、岡田啓介内閣もまた三五年暮れからの第六八議会に臨時町村財政補給金制度を立案し、所要予算の協賛を要求したが、翌三六年二月の二・二六事件で同内閣は総辞職し、補給金制度は実現をみなかった。しかし、岡田内閣の後をうけた広田弘毅内閣のもとの馬場財政により、同年五月の第六九議会において臨時町村財政補給金制度(二〇〇〇万円の追加予算)はついにその成立をみた。
 この臨時町村財政補給金は、政党や全国町村会が要求していた財源を付与して地方団体の財政調整を全般的に行うという意味での調整交付金制度ではなく、窮乏町村の税負担を軽減するための応急的なものではあったが、翌三七年には「臨時地方財政補給金」と改称、予算額もいっきょに一億円に増額されて、道府県に二七五〇万円、市町村に七二五〇万円が交付されることになった。これは、同年度の地方税総額六億七二〇〇万円の約一五%にあたり、交付をうけた補給金は、原則として道府県においては地租付加税、特別地税および雑種税の、市町村においては戸数割と雑種税付加税の軽減にあてられた。さらに、三八年度には日中戦争の勃発という事情もあり、一億三〇〇〇万円に、そして翌三九年度には一億四八〇〇万円にまで増加した。また、当初窮乏団体の税負担軽減を目的としていた補給金は、減収および歳入欠陥の補充、一定経費の支弁ならびに公債の繰上げ償還にも利用されるようになっていた(『昭和財政史』14)。
 福井県にも三七年度三四万円、三八年度四九万円、三九年度五八万円が「地方財政補給金」として交付されており、その額は県歳入の四%から六%を占め、また、県税収入に対する比率も一三%から二二%となっていた(表49)。県税のうち三五年度と三九年度の各種税収をみた場合、地租付加税は八〇万円から五二万円へ、雑種税は六八万円から四六万円へ、特別地税は一二万円から九万円へと減収となっている。この三税の減収総額は五三万円となり、補給金は福井県においてはその大半がこうした減税に使われていた(資17 第29表)。



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