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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      大政翼賛会福井県支部の結成
 このように新体制への合流をめざして、政党はあいついで解散したが、近衛らが当初構想した新党は樹立されず、新体制の中核としての大政翼賛会が、一九四〇年(昭和一五)一〇月一二日に発足した。新体制準備会における紛糾が、大政翼賛会の性格を政治力をもつ国民運動方式と官僚が指導する精動運動方式との折衷的なものにした。
 発会式の二日前、福井新聞社主催の新体制座談会が、新体制建設国民遊説隊本部特派員の唐島基智三と山内藤介を迎え、県下各界の有力者が出席して開催された。そこでは、かつて福井新聞の主筆であり民政党の代議士でもあった土生彰が、少数の人びとが一億国民に号令をかける独裁的システムは憲法に抵触しないかと疑義を呈し、また「八方へ気兼するのは旧勢力の八方へで、新勢力の八方へは些かも及んでゐぬ」などと新体制運動へ痛烈な批判を展開していた。また、政党解消運動にもっとも積極的であった斎木重一も「大政翼賛運動は資本主義、自由主義と絶対に相容れない」と主張し、彼の期待した新体制運動とのズレに苛立ちを示していた(『福井新聞』40・10・10、12)。
 このように県下の識者や指導者のなかにも翼賛運動に対する疑問や批判があった。また大政翼賛会は、政界、財界、軍、官僚、右翼などの対立のなか、妥協に妥協を重ねてようやく成立したのであり、その発会式当日、近衛は「本運動の綱領は大政翼賛の臣道実践に尽きる」「これ以外に綱領も宣言もない」と述べざるをえなかったのである。こうして成立した大政翼賛会は、内閣総理大臣を総裁としてその下に中央本部をおき、中央協力会議を付置するというかたちで組織され、地方にも道府県・郡・市町村支部とともにそれぞれに協力会議がおかれた。翼賛会の運営は、多数決原理を否定し衆議を尽くすが最終決定は総裁がくだすという「衆議統裁」方式をとった。
 四〇年一二月一日、大政翼賛会福井県支部は発会式を開催した。当日、主宰常務委員の木村清司知事は、「下から盛り上がらんとする県民の熱意に更に拍車をかけ、本運動をして名実ともに挙県一体の翼賛運動たらしめ、以て万民輔翼の実を挙げねば」ならないと述べた。常務委員には、表37のように知事以外に一〇名が委嘱され、そのなかから庶務部長に福島文右衛門、組織部長に高島一郎が就任した。このほか、一〇名の常務委員が理事を兼務し、酒井利雄県会議長ほか二一名が顧問に、二八名が参与に任命された。翌四一年三月には県支部に調査研究のため、政治文化、国民生活、商工業、農林水産の四つの審議委員会を設置し、理事、参与のなかから委員長と委員を任命した。また、「上意下達」とともに「下情上通」をはかるために協力会議をもち、四〇年一二月の臨時中央協力会議には高島と福島が出席した。県下でも翼賛会の改組が行われ動揺のみられた翌四一年四月に郡協力会議が、五月には第一回県協力会議が田保仁左衛門議長のもとに開かれ、運動の拡大をはかった(『福井新聞』40・12・2、資12上 二〇九、「大正昭和福井県史 草稿」、『大阪朝日新聞』41・3・2)。

表37 大政翼賛全県支部常務委員(1940年12月)

表37 大政翼賛全県支部常務委員(1940年12月)
 こうしてはじまった県下の翼賛運動に対して、中央から翼賛会宣伝部情報係の北陸班長城地良之助が、四一年二月に視察した報告書が残されている。それによれば、福井県の翼賛運動は長野・新潟・富山・石川四県と比べもっとも旧体制に依拠しているとし、常務委員の活動は不活発で、支部事務局もようやく二名が発令されただけで、「今日迄全く翼賛運動は県庁の役人の仕事の体を呈す」とし、またその県庁幹部をもつぎのように批判していた(『資料日本現代史』12)。知事は最近神奈川県総務部長依り転任されし事にて対談等に於ても相当「ヒヨリ」見態度なり。予算の通過を見て等の意見もあり、尚総務部長等全く所謂官僚にて今日の時勢には如何とも思ふ所多しこのため、城地は他県では三日間で切り上げたが、福井県には一〇日間滞在して県下各地にでかけ運動に対するオルグを行った。福井県の大政翼賛会は、発足時の常務委員以下の人選においても、学歴と年齢に若干の考慮が払われた以外は各界のバランスをとる旧套の基準でなされ(表37)、また高島常務委員の「突然電話でお話がありすぐ引受けよとのことで、任務をきゐていないから何をするのかわからない」の言に象徴されるように、典型的な官僚主導であったところにその特色が表われていた(『大阪朝日新聞』41・10・21、22)。県下の翼賛運動は、まったくの精動運動の延長上にあり、他府県と比べてもその色彩が強かったのである。なお、こうした官僚主導の翼賛運動に対する県民の批判は、後述する四二年四月の翼賛選挙での非推せんの薩摩雄次ブーム(トップ当選)などに示されることになる。



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