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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    四 百貨店と中小商業者の動向
      だるま屋百貨店の開店
 一九二八年(昭和三)七月、福井駅前の旧県庁跡地に福井県でははじめて百貨店が開設された。だるま屋である。木造二階建て、本館延べ三七〇坪、市内小売商のための二二〇坪のマーケットを備え、店員は七五名であった。開店当日は珍しさも手伝って顧客でいっぱいになり、店内は夜に近づくにつれて混雑をきわめ、警察当局からはこれ以上客を入れると危険であると注意が出されたほどであった(『あゆみ 福井商工会議所八十年史』)。
写真18 だるま屋百貨店

写真18 だるま屋百貨店

 当時、福井市の繁華街は本町・京町・呉服町・片町であり、旧県庁跡地あたりは県庁舎移転後はさびれたところとなり、この時期の不況も重なって県庁跡地の処分はなかなか進まなかった。商業会議所書記でもあった坪川信一は、この跡地の処分について協力を求められた。だが、結局、坪川自身がこの跡地で自ら百貨店を経営することになる。坪川は、県庁跡地処分の時に土地購入を引き受けてくれた熊谷三太郎の援助によって百貨店経営に乗りだしたのである(『熊谷三太郎』)。
 坪川は百貨店の経営者としては異色の経歴を有していた。坪川は、一八八七年(明治二〇)、足羽郡種池村に生まれた。一九〇七年三月に福井師範学校を卒業し、教員として母校の江守小学校をはじめ、福井市内の尋常小学校・高等小学校を歴任した。一八年(大正七)には県の教育課職員となり、翌年には社会教育主事に抜擢された。福井県自治協会と福井県教育会の発行する雑誌『教育と自治』の編集も担当した。彼は文学を愛好し、島崎藤村に私淑して「冬村」と号した。また二二年に社会課が独立したときにはあらためて社会教育主事となり、社会教育の事業に活躍した。だが、時の知事白男川譲介と意見が対立し、坪川は小学校長に転勤することを命ぜられた。坪川はただちに辞表を提出し、のちに福井商業会議所書記、二七年(昭和二)には県会議員となった。しかし、翌二八年六月には県会議員を辞職し、だるま屋百貨店の経営に専念したのである(『県議会史』議員名鑑)。
 坪川は、だるま屋の経営理念として「教育の商業化」、「教育の生活化」を掲げた。だるま屋の幹部はすべて教員出身者で、子供むけに「コドモの国」を開設し、「だるま屋少女歌劇」も設立した。たんなる百貨店経営ではなく、地域の文化活動に大いに貢献したのである。このためであろう、のちになっても、この時代を生きた人びとはだるま屋が一つの「思い出」になり、「だるま屋店歌」を口ずさむ人さえいたという(福井市『わがまち福井』)。
 だるま屋は異色な百貨店として全国に知れわたった。当時の雑誌『商店界』、『主婦之友』、『現代』などは、「既成商人を圧倒する素人商売、商売即社会教育の実行者、福井市だるま屋百貨店の経営」などと題して、だるま屋の経営ぶりを紹介した。しかもだるま屋は、このような経営理念を掲げながらも、開店当初の二八年より黒字を計上し、人口一〇万人以下の福井市では百貨店の経営は無理だとする大方の見方を覆し、福井市でも百貨店の経営が成り立つことを身をもって証明したのである。



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