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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
     二 社会教育と県民教化
      県連合青年団の活動
 とはいえ、昭和初期の県連合青年団のおもな事業をみると、相互連絡と娯楽的な要素をもつ活動が依然として中心を占めていた。一九二六年度(昭和元)では総会、講演会、移動講習会、雄弁大会、体育(大)会、優良青年団(員)の表彰と、あらたに企画された相撲大会などであり、二八年四月から開かれた市町村青年団代表者大会で、県からの諮問や各青年団提出の議題に対して協議が行われるようになった(『福井新聞』26・4・3、福井県連合青年団『団報』1)。
 なかでも、体育大会は郡市別対抗で行われたため、福井新聞社寄贈の優勝旗をめぐって多くの団員を熱狂させた。第一回大会は二八年一〇月、福井市公開運動場で行われ、競技種目は陸上と相撲であったが、三五年度から柔道・剣道が加えられた。こうした体育大会・雄弁大会は郡市単位でも催され、中等学校生と青年団対抗の雄弁大会も行われた(『福井新聞』28・10・17、31・5・16、『福井県青年』36・4)。
 農業恐慌が深刻化すると経済更生運動に関連して三二年には大日本連合青年団から、各青年団に産業部の設置や一人一研究が奨励された。一般に青年層の組織化は経済更生運動の実施に不可欠と考えられ、『福井新聞』においても「青年の活動と意気が村の気風を刷新」「更生漁村建設、青年は起て、柳井県経済部長談」のように青年の奮起が推奨されていた(『福井新聞』35・1・13、4・13)。
 しかしながら、三三年六月の県連合青年団代表者大会では、三月の国際連盟脱退についての詔書をうけて「聖旨徹底」のための方策、経済更生運動における青年団の役割、秋に福井市近郊で予定された陸軍大演習への対応などが議論されたが、具体策に欠け、機関紙自らが評価するように「掴み所の無い」ものとなっていた(『福井新聞』33・6・10、『福井県青年』33・8)。この代表者大会では丹生郡の代表から、在村機業に従事する職工層も含む青年団では、経済更生運動の効果自体を疑問視する意見もあり、県連合青年団としては、全国青年篤農家大会などへの代表派遣のほかは、独自の取組みはほとんどなされなかった。三四年七月にようやく二日間の県連合青年団主催青年農業経営研究会が、福井農林学校において開催された(『福井県青年』34・7、8)。
 郡レベルでは坂井郡連合青年団が比較的熱心に農業振興に取り組み、三二年一一月の協議で同年度から各町村青年団に産業部をおくこととし、郡連合青年団主催で副業講習会や農産物品評会などが行われた(『福井県青年』32・12、33・11)。また、経済更生指定村となった村むらのなかでは、坂井郡大石村で青年団長が経済更生委員会の幹事となり、青年団が中心的な位置で活動した。同郡本荘村、三方郡八村でも産業部に重点をおいた活動を行っていた(旧大石村役場文書、『福井新聞』35・1・8、『福井県青年』34・6、8)。
 三四年六月には、国民精神作興に関する詔書渙発一〇周年を記念して下付された内帑金で製作した「聖恩旗」が福井県連合青年団に伝達され、「聖恩に答ふる道」「献身報国」が鼓舞された(『福井県青年』34・6)。さらに三七年五月に「国体の本義に則り忠孝一如の精神を発揚す」にはじまる「綱領」を制定し、七月に盧溝橋事件によって日中戦争が開始されると、青年団は、いっきに戦時体制へ動員されることになった。同月一八日の大日本連合青年団臨時大会に続いて、八月一日県連合青年団でも臨時大会を開き、「郷に在りては各自の職責を尽くし、事あるに際しては一死君国に奉じ、以て日本青年たるの本分を完ふせむ」とする「宣言」を決議、聖恩旗を掲げた市中行進には、団員一六〇〇名が参加し、藤島神社で国威宣揚の祈願を行った(『福井新聞』37・8・2)。



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