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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
     二 救済事業の展開
      産業組合の拡充
 負債整理の課題を抱える経済更生運動の推進にあたり、その中核機関としての役割を担わされたのが産業組合であった。産業組合は、一九〇〇年(明治三三)に公布された「産業組合法」にもとづく協同組合で、信用・購買・販売・利用の四種の組合を含み、おもに日露戦後に発達してきたものである。全国組織として産業組合中央会・産業組合中央金庫・全国購買組合連合会・全国米穀販売組合連合会・大日本生糸販売組合連合会などをもち、地方には道府県の支会や各種連合会のもとに、農村組合・漁村組合・組合製糸・市街地組合などを配していた(産業組合中央会「産業組合拡充五ケ年計画第一年度実績報告」)。その数からみれば、信用事業を中心とする農村組合が大勢を占め、町村あるいは部落(区、大字)を単位に設置されたものが多かった。
 福井県における組合数は、一九〇〇年代の後半から比較的コンスタントな伸びをみせ、三一年度(昭和六)の段階では、県内一七七町村に約二五〇組合が設立されていた。このうち一一〇あまりが町村、一〇〇あまりが部落を単位に設置されたものであり、事業目的には信・購・販の三種兼営、信・購・販・利の四種兼営、信・購の二種兼営を掲げるものが多かった(「福井県産業組合要覧」)。昭和初年からは、県商工水産課が部落組合の町村組合への合併を奨励し、電気利用組合などをのぞいて部落単位の組合は減少する傾向にあった。
 一方、部落を単位とする農業団体には、県農林課が県農会とともに普及に力を入れた農事改良実行組合があった。三二年一〇月までに、全部落数の六七%にあたる一二七三組合が設置され、農事改良や教育・教化事業のほかに、電化・共同購入・共同販売・共同作業・共同使用等の事業を行っていた(資12上 一六二)。この農事改良実行組合の普及のピークは、大正末から昭和初年にかけての時期であった。二八年には同組合が共同購買・販売事業に積極的な取組みをみせはじめたことにより、産業組合側から本来の担当事業を阻害する行為であるとの苦情が知事に寄せられている(『福井新聞』28・6・24)。ちょうどこの時期には、不況のあおりをうけ、かつて優良組合で知られた敦賀郡松原村産業組合の破綻騒ぎがおきて、信用事業の面でも産業組合の地位低落はまぬがれなかった(『大阪朝日新聞』28・6・16)。農業団体のリーダーシップを握るには、やはり地主勢力の結集した農会が圧倒的に優位な立場にあったのである。
 ところで、政府が唱える経済更生運動においては、産業組合が「販売、購買、金融、利用等ノ経済行為」の実行中枢機関に位置づけられ、未設置町村の解消と信用・購買・販売・利用の四種事業の兼営がさかんに奨励された。全農家の加入をはかるため、産業組合法を改正して部落単位の農家組合である農事実行改良組合等を法人(団体)として産業組合に加入する途も開かれたのである。そして、三三年からは、いよいよ「産業組合拡充五ケ年計画」が全国いっせいに着手されることになった。その目的は、国家として「中小産者」の産業と経済の組織的な統制をはかるため、産業組合を通じてすべての農家経済を系統的に把握することにあった。県の経済更生課にも産業組合の担当者が配属され、町村の経済更生委員会には産業組合に理解ある者を多く選ぶことが求められたのである。
 しかし、福井県では農会が、農事改良実行組合の法人化による産業組合への加入を嫌い、自らの指導下に「農家組合」の名称で任意組合として存続させることを決定した(『福井県農会報』32・11)。経済更生運動にあっても、計画・指導を農会、金融関係の運用を産業組合が行うという役割分担を定め、当初から産業組合の機能を限定しようとする動きがみられた(『大阪朝日新聞』33・1・17)。そして、産業組合の拡充には、未設置町村の解消と個別農家による全戸加入が目標に掲げられたのである。それらはいずれも三〇年代後半に実現されるが、戦争下の農村協同体制の確立にむけて産業組合の担う役割・機能は、法律や制度のうえでも無視できないものになっていた。だが、農会が指導する農家組合が末端の更生運動を担う「花形役者」であるという線は、最後まで崩されることがなかった(『福井県農会報』37・3)。
 経済更生運動における産業組合の位置づけ方や、組合拡充の課題にむかう県や農会の方針には、地主勢力の意向がおおいに反映されていただろう。産業組合が地主と利害を異にする新興勢力の拠点であったとはいえないが、協同組合運動の発想は、当然ながら従来の地主や商人に牛耳られた農村・農民経済に一定の変革を迫るものであった。そのことに対する多くの地主の危機意識が、産業組合を敬遠する動きとなって表われたのであろう。かたちのうえでは農村の利権を守る車の両輪として共存共栄がはかられていったが、実際は農会が産業組合をうちに取り込むことで、農村支配の主導権をめぐる競合が回避されたのである。三七年以降、農村協同体制の整備が進むなか、この問題は国策レベルで調整がはかられ、実質的な統合が行われていくのである。



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