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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    三 選挙粛正運動と政党
      一九三六、三七年の総選挙
 一九三六年(昭和一一)一月二一日、岡田内閣は議会を解散し、四年ぶりに総選挙が行われることになった。前年の三五年一一月、選挙粛正中央連盟(会長斎藤実)は、『選挙粛正第二次運動計画の大要』を出し、そのなかで「実効を挙ぐるの最後的方途は、結局市町村に於ける町内及び部落懇談の開催に俟つの外なしと信ず」と述べ、道府県に対しても懇談会の開催の徹底を強く要望していた(斎藤実文書)。しかし、第二次選挙粛正運動も今回の総選挙からはじめて「選挙公報」が有権者に配布されるなど、いくつかの新しい試みがなされたが、運動は概して形式に流れがちであった(『大阪朝日新聞』36・2・18)。
 この三六年の総選挙では、前回三〇一議席を獲得した政友会(解散時二四二)が一七一議席に激減し、前回一四四議席だった民政党が岡田内閣の与党ということもあり二〇五議席を獲得し第一党となった。また、無産派が前回の五議席から社会大衆党の一八議席をはじめとして二二議席にふえたことも注目された。
 福井県においては「おらが総理」のもとで行われた選挙であったため、政友会はとくに苦戦した。勅選貴族院議員になった山本条太郎の地盤はおもに、中立で立候補した岡田首相の秘書官だった福田耕に引き継がれた。また、熊谷五右衛門は政友会を離脱し、岡田内閣の与党となった昭和会から立候補し、表9(表9 昭和戦前期衆議院議員「選挙(1928、30、32、36、37、42年))にみるとおり、選挙結果は民政党二、政友会一、中立一、昭和会一となった。
 福田は予想どおりトップ当選を果たしたのであるが、もっとも多数の選挙違反者を出し、その検挙・起訴者は政友会の県会議員から貴族院議員飛島文吉にまで及んだ。このほか、県下在郷軍人の有力者や社会大衆党などが支持した弁護士で福井市会議員の下里宣は、積極的な言論戦を行った。しかし、表9のとおり、県民の支持は得られず、かえって、彼を支持した県下無産運動の指導者である斎木重一、山口小太郎、重田耕造が選挙違反で検挙される結果となり、自らも「最多の言論は最少の得票なり」とその敗北を認めていた(『福井評論』36・3、『大阪朝日新聞』36・2・21)。こうした事態に対して、『福井新聞』(36・3・11)は、「粛正選挙は遂に敗北」という見出しを掲げて報道していたように、選挙粛正運動そのものの意義が問われていたのである。総選挙直後に二・二六事件がおこり、岡田内閣は総辞職し、代わって「庶政一新」を掲げた元外相の広田弘毅内閣が登場した。しかし、同内閣も陸海軍の対立などによる閣内不一致で総辞職し、三七年二月には陸軍大将林銑十郎内閣が成立した。林内閣は民政党や政友会からの入閣にさいして党籍離脱を求めたため、二大政党とのつながりが失われ、通常議会最終日の三月三一日にいわゆる「食い逃げ解散」を行った。
 四月三〇日に投票が行われたが、県民にはまた選挙かという気分があり、選挙戦は低調で棄権率は福井県でもはじめて二〇%をこえた(表9)。また、投票結果も福田耕の代わりに政友会の池田七郎兵衛が当選しただけで、林内閣のもくろんだ総選挙により二大政党に打撃をあたえることはできなかった。しかし、東方会の薩摩雄次が善戦し、六月には福井県立憲勤労民衆党を結成、民政党系市会議員の一部がこれに参加し注目された(『福井新聞』37・6・21)。
 たしかに、選挙の腐敗をなくすことを通じて、「憲政の危機」を救うことを建て前に行われた選挙粛正運動ではあったが、現実には「憲政の危機」をいっそう促進する役割を果たすことになった。また、町内・部落「懇談会」を積極的に利用することにより、国民の最末端まで政策が浸透するルートが確立された。しかし、社会大衆党などの無産政党の躍進にみられるように、国民の消極的抵抗は随所でみられ、けっして官僚や軍部の思惑どおりには進行せず、より積極的な官製国民運動が求められたのである。



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