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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    一 政党政治下の県政
      普選・二大政党制と県下の動向
 大正デモクラシー運動の最大の課題であった「普通選挙法」(衆議院選挙法改正)が、「治安維持法」と抱合せで、一九二五年(大正一四)三月に成立していた。納税要件はなくなり、二五歳以上の成年男子すべてに選挙権が付与された。これをうけて、府県制も改正され、最初の普選による県会議員選挙が二七年(昭和二)九月に予定されていた。前回の二三年の選挙が政友会二九名、憲政会一名と政友会圧勝に終わって以後、政友会県会議員は内紛を重ね、さらに政友会の分裂、護憲三派内閣の成立などの影響もうけて、県会議員の離合集散がくり返された。その結果、二七年六月一日に民政党が結成され、政友会との二大政党制が成立するなか、翌七月九日の民政党県支部成立時には、民政党県会議員は全体の三分の一を占めていた。
 立候補届出制となった二七年の県会議員選挙には、政友会から二六名、民政党から一〇名、労農党から二名、無所属九名の四七名が立候補した。有権者が前回の約七万人から約一二万五〇〇〇人に増加し、激しい選挙戦となった。坂井郡では定員五名に八名が立候補し、三位から八位までの得票差はわずか二五〇票であり、このような例は他郡でもみられた。しかし、敦賀・三方・遠敷郡では無投票となり、普選実施の意義が問われることになった。
 また、官憲の普選への取締りもきびしかった。官憲の監視がきびしく、多くの演説会場は聴衆者がわずか三〇人から五〇人と熱気がなく、不正の摘発よりは選挙そのものを脅かすことが取締りの目的となっていた。選挙直前の『福井新聞』(27・9・20)には、「コンナ面倒臭い選挙権は棄権した方が余ツ程マシだ」、「障らぬ神にたたりなしだ、俺は棄権するよ」などの声が多いことを紹介し、「折角拡張された選挙権もこゝに至つては全くその意義をなさないと信ずる」という投稿が掲載されていた。
 選挙は、政友会一九名、民政党七名、無所属四名が当選し、田中義一内閣の与党であった政友会の勝利に終わった。丹生・南条郡では労農党候補者が善戦し、一方では、政友会県支部幹事長の広部徳兵衛(坂井郡)や次期議長候補と目されていた恩地政右衛門(坂井郡)が落選したことに象徴されるように、依然として政友会が圧倒的に強い福井県の地方政治構造にも変化のきざしが現われてきたことを示してはいた。しかし、当選者の顔ぶれは、前議員九名、元議員三名、新人一八名で、その平均年齢の四八・七歳は前回より三・八歳も高齢化しており、新聞は「新顔も余り現れず変栄えなき選挙結果、依然老人組の多いこと」という見出しで選挙結果を報じていた(『大阪朝日新聞』27・9・24、26)。
 このことは、二大政党制が成立し、普選によって行われた二七年の県会議員選挙においても、有権者の基本的投票行動が地域(生活基盤としての居村)にもとづいていたことを示している。南条郡は政友会二名、民政党一名に労農党一名が立候補し、県下ではもっとも政党・政策を軸に選挙が戦われた選挙区であった。図1により候補者の町村別得票率をみると、桂屋喜右衛門(民政党当選)と加藤勝康(政友会落選)の武生町での選挙戦は、二大政党の対立軸を反映していると思われるが、田中又右衛門(政友会)の当選は居住地である今庄村およびその周辺諸村での圧倒的得票率によって果たされていた。
図1 南条郡県会議員選挙町村別得票数(1927年)

図1 南条郡県会議員選挙町村別得票数(1927年)

 この田中の例にみられるような得票パターンは、表1からも明らかなように政友会候補がすべてまたは多数を占める大野・坂井・丹生などの諸郡においてはより顕著であった。言論戦・文書戦による政策本位の選挙戦が期待された普選ではあったが、具体的政策目標を掲げて選挙を戦ったのは労農党など一部の候補者のみであり、多くの候補者は従来の集票形態を踏襲した。すなわち、地縁・血縁から地区推せんや町村の有力者の推せんをうけて、選挙地盤を固めていったのである(西弥右衛門家文書)。したがって、多くの候補者にみられたこのような従来型の選挙戦は、当然のことながら、有権者の増大に比例するかのように、より多くの選挙資金を必要とし、「金満家」の優位性がさらに強調されることになった。そして、この県会議員の選挙実態は、翌二八年二月の第一六回総選挙でいっそう拡大されたかたちで再生産されることになる。


表1 県会議員選挙の郡別得票率(1927年)

表1 県会議員選挙の郡別得票率(1927年)



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