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第六章 中世後期の宗教と文化
   第三節 民衆芸能
    二 幸若舞
      声聞師と曲舞
 世阿弥の言っていることにもかかわらず、この時代、曲舞師による曲舞は終わったにしても、唱門師(声聞師)たちがそれを伝えていた。応永三十年(一四二三)十月一日には、近江・河内・義乃(美濃か)・八幡などの国ぐにの唱門師たちが、京都の六角堂・亭子院・梅小路・珍皇寺・矢田寺・大堂(犬堂か)で連日舞を舞い、人びとは棧敷を構えて見物したという(『康富記』同日条)。このころから唱門師たちが勧進曲舞という形で京都や奈良の寺社で活動していたことが、諸記録によって明らかにされる。記録の性格による制約もあるが、特に児舞・女舞と書かれたものが目につき、当時の曲舞がかなりあでやかなものであったことが推測される。そのことは嘉吉二年(一四四二)五月八日の『管見記』に、「当時諸人弄翫せしむるくせ舞あり。これを二人舞と号す。家僕等勧進によつて今日南庭においてこれを舞ふ。音曲舞姿尤も感激あり」とあることによっても確かめられる。『管見記』の著者西園寺公名を感激させた曲舞は、五月二十二日にも推参し、「見聞の衆庭前に満つ」ありさまであった。その二日後、二十四日に「幸若大夫先日の礼と称して来たる」とあり、この二人舞が幸若であったことがわかる。都の貴顕が「幸若」の名を記録した最初の例である。曲舞の曲名が記録されるのは、一五〇〇年代に入ってからだが、おそらく幸若が登場したころから、曲舞も英雄の活躍を主にした長編の語り物という新しいものに変わっており、それが都の人びとに受け入れられたのであろう。
 室町期から近世初期にかけて曲舞を舞った者は、幸若や前述の国ぐにの唱門師のほかに、京都の北畠・桜町の唱門師(千秋万歳)や大頭などがある。越前幸若の実態はほとんど不明であるが、世阿弥の言っていることや、曲舞を舞っている者たちが唱門師であることからすると、幸若もまた唱門師の一派であったらしいが、早くから他の曲舞とは別格の扱いを受けていたようでもあり、なお問題は残る。
 現在「幸若舞曲」という用語が使われるのは、曲舞のなかで幸若が大きな力をもつようになったために、新しい曲舞を幸若の名で代表させているのである。したがって、「幸若舞曲」と言った場合、幸若以外に大頭や笠屋やその他の曲舞をも含めている。



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